プロップス消費とは
本稿では、このような消費形態を「プロップス消費(Props Consumption)」と呼ぶ。プロップ(prop)とは、演劇や映画において俳優の演技を支えるために用いられる小道具を意味する。プロップが重要なのは、それ自体に固有の価値があるからではなく、登場人物や状況、物語を成立させる役割を果たすからである。すなわち、ある演技を現実味のあるものとして成立させるための物質的要素なのである。
ブランド・リレーションシップ研究においても、ブランドは消費者の自己構築や自己表現を支える「プロップ」として機能し得ることが指摘されてきた。しかし、この文脈でのプロップとは、ブランドに付与された象徴的意味や文化的連想を借用し、それによって自己のアイデンティティを表現するための装置として理解できる。
例えば、高級ブランドを身につけることは洗練された人物像を示し、アウトドアブランドを身につけることは自然志向のライフスタイルを表現する。この場合、重要なのはブランドに共有されている社会的意味であり、消費者はその意味を借用することで自己を表現している。この考え方は、ボードリヤールの記号消費論の延長線上に位置づけられる。
しかし、本稿で提示するプロップス消費は、この理解とは重要な点で異なる。プロップス消費は、必ずしもブランドを前提としない。重要なのはモノがどのような意味を持っているかではなく、そのモノを用いることでどのような自己や世界観を実現できるかである。ブランド研究におけるプロップがブランドの意味を通じてアイデンティティを表現するための装置であるのに対し、本稿におけるプロップは、望ましい自己を演じ、特定の世界に没入するための舞台装置であり道具なのである。前者の焦点がブランドに付与された象徴的意味にあるのに対し、後者の焦点は「演じること」そのもの、そして望ましい世界観への没入にある。
本稿では、プロップス消費を次のように定義する。
商品そのものの機能や使用価値ではなく、その商品を消費することで自分がどのように見えるか、どのような存在として振る舞えるかというイメージを自己に付与することを目的とした消費行動。
消費の重心はモノから自己へと移行しており、消費者は商品を所有するために消費するのではなく、その商品を通じて特定の自己になるために消費しているのだ。
この現象は、アーヴィング・ゴフマンのドラマトゥルギー(演劇論)的アプローチによっても理解することができる。ゴフマンは、社会的相互作用を演劇にたとえ、人々は他者の前で特定の役割を演じる「演者」であり、社会はその舞台であると論じた。この視点から見れば、自己とは固定的な本質ではなく、状況や観客に応じて演じられるものである。そして衣服や所有物、空間といった物質的要素は、その演技を成立させるために不可欠な役割を果たしている。
プロップス消費とは、まさにそうした演技を支えるプロップを消費することにほかならない。人々は商品やサービスを通じて、特定のライフスタイルや価値観、社会的役割を演じようとする。カフェや観光地、イベント、ファッションアイテムはもちろん、ペットボトルの水やコーヒーといった日常的な商品でさえ、特定のアイデンティティを演じ、特定の世界観や物語へ没入するためのプロップスとして機能し得るのである。しかし重要なのは、演技は演者自身が信じているだけでは成立しないという点である。ゴフマンの演劇的比喩において、王を演じる俳優には、王冠や玉座といった観客が理解できる象徴が必要である。同様に、日常生活における自己呈示も、他者と共有された意味体系に依存している。
記号は社会的に共有された文脈の中でのみ意味を持つ。例えば、ビールは社交的な飲酒の場面と結び付けられ、エナジードリンクは活力や刺激、活動性と結び付けられる。それは社会全体で共有された文化的コードが存在するからである。この共有された文脈があるからこそ、それらの商品は単なる機能を超えた意味を持つ。
筆者は以前、アメリカで人気を集める缶入り飲料水ブランド「Liquid Death」を事例として、その消費構造について考察した。同ブランドは、内容物ではなく缶のデザインやブランドイメージを通じて、消費者が特定の文化的世界へ参加している自己を演出できる点に価値を有していると論じた。ここで重要なのは、飲料の価値が味や機能だけで決まるのではなく、その商品を媒介としてどのような自己を演じられるかにあるという点である。このことは、プロップス消費が本質的に持つ「脆弱性」を示している。プロップス消費は、モノが持つ記号や文化的文脈を借りながら、自らを特定の世界観の中へ位置づける行為であるがゆえに、その価値は極めて視覚的かつ状況依存的である。飲料水そのものは安価に購入できるにもかかわらず、Liquid Deathのようなブランドは、その何倍もの価格で消費者に受け入れられている。ここで消費者が支払っているのは、水という内容物の機能的価値ではない。むしろ、パッケージデザインやブランドイメージ、そこから喚起される文化的文脈といった記号的価値に対して対価を支払っているのである。
しかし、このような商品価値は、視覚的イメージに強く依存しているがゆえに脆弱でもある。例えば、水をグラスへ移し替えるだけで、商品が演出していた自己像や世界観は容易に失われてしまう。内容物はまったく変わらないにもかかわらず、プロップとしての機能だけが消失するのである。すなわち、プロップス消費において価値を支えているのは商品の物理的実体ではなく、商品を取り巻く記号的・視覚的な文脈なのである。
同時に、このことはプロップス消費の代替性も示している。価値が商品の機能ではなく、演出される自己や世界観にある以上、同じ役割を果たせる別の商品が存在すれば、消費対象は容易に置き換えられる。重要なのは「何を持つか」ではなく、「何者として見えるか」だからである。言い換えれば、プロップス消費とは、記号への依存ゆえの脆弱性と、機能からの自由ゆえの代替性を併せ持つ消費形態である。価値はモノそのものには存在せず、モノが媒介する文脈や自己演出に存在する。だからこそ、その文脈が失われれば価値は容易に崩れ、一方で同じ文脈を提供できる別のモノがあれば、消費対象は容易に置き換えられるのである。
クロワッサンが「フランスらしさ」の記号を媒介として、「パリの朝を過ごす自分」を成立させるように、飲み物もまた特定の空間や文化的文脈への参加を可能にするプロップスとして機能する。人々は飲み物を喉の渇きや味覚だけで選んでいるのではない。物質的豊かさが実現された現代では、その場の雰囲気や文化、人間関係に応じて「その場にふさわしい飲み物」を選択することも少なくない。
例えば、高級レストランでは普段ワインを飲まない人でも自然とワインを注文し、野球場ではビール、ホテルラウンジではコーヒーを選びたくなる。それは飲み物が単なる嗜好品ではなく、その場の文化的文脈へ自らを接続する役割を担っているためである。このことは、プロップス消費が単なる自己表現ではなく、社会的に共有された記号を用いた自己演技(self-performance)であることを示している。消費者は商品そのものではなく、その商品に埋め込まれた文化的意味を利用して特定の役割や世界観を演じているのであり、その演技は他者にも理解・承認され得るからこそ成立するのである。
他者にみられることが前提ではない
一方で、プロップス消費は、必ずしも他者の視線やSNS上での承認欲求だけによって生じるものではない。たとえ誰にも見られていない状況であっても、人はモノや空間を利用して、特定の世界観や役割へ没入しようとすることがある。
例えば、テレビドラマでよく見られる、高級ホテルに一人で宿泊し、バスローブ姿でワインを飲む場面を考えてみよう。そこには観客もおらず、その様子をSNSに投稿する必要もない。それにもかかわらず、人はあえてそのような行動を選択する。それは単にワインを飲みたいからではない。むしろ、「高級ホテルで優雅な夜を過ごす人物」という感覚や物語を自ら作り出し、その世界を生きたいからである。この場面において重要なのは、ワインそのものではない。バスローブやワイングラス、窓の外に広がる夜景、ホテルという空間、そして照明といった要素が一体となって、「その世界の中にいる自分」という経験を構成しているのである。もし同じワインを紙コップに注いで飲んだとしても、味は変わらない。しかし、その体験価値は大きく異なるだろう。
このような行為は、誰かに見せるためだけの自己演出ではない。人は幼少期の「ごっこ遊び」に見られるように、特定の役割になりきり、その世界を一時的に生きること自体に楽しさや意味を見出す存在でもある。重要なのは、その役割を他者に証明することではなく、自らがその役割を内面化し、その世界観を経験することである。プロップス消費も同様に、モノや空間をプロップ(小道具)として用いながら、理想の自己や憧れのライフスタイルを一時的に演じ、その世界の中に存在している感覚を得るための実践として理解することができる。つまりプロップス消費とは、他者にどう見られるかだけではなく、「自分自身がどのような世界観の中に存在していると感じられるか」を消費する行為でもある。
プロップス消費から見る「都市の劇場化」
同様の現象は、都市研究において論じられてきた「都市の劇場化(theatricalization of the city)」にも見ることができる。都市の劇場化論によれば、現代の都市は単なる生活や商業のための空間ではなく、人々が自己を演じ、アイデンティティを構築する舞台として機能している。日本においても、渋谷や青山、代官山といった地域は、特定のライフスタイルや価値観を演じることを促す都市空間としてしばしば理解されてきた。そこでは、人々は単なる消費者ではなく、自らの外見や振る舞い、消費実践を通じて自己や世界観を表現する「演者」として存在している。
しかし本稿では、このような劇場性は都市空間それ自体に内在する性質ではないと考える。むしろ都市の劇場化とは、無数のプロップス消費が積み重なることによって生み出される現象として理解すべきである。例えば、原宿を考えてみよう。原宿らしいファッションやライフスタイルは、単に「原宿」という場所が先に存在し、人々がそれに従った結果として生まれたわけではない。むしろ、人々が原宿を象徴する服装やブランド、カフェ、振る舞いといったさまざまなプロップを消費し、それらを用いて自己を演じ続けることによって、「原宿らしさ」は絶えず再生産されているのである。人々はプロップを用いて自己を構築し、提示することで、その地域の文化的アイデンティティを繰り返し作り出している。
さらに興味深いのは、その演技そのものが、他者にとって新たな消費対象となることである。後からその場所を訪れる人々は、すでにそこにいる人々の服装や振る舞い、あるいはSNSに投稿された写真を見ながら、「この場所ではどのように振る舞うべきか」という暗黙のコードを学習する。そして、その世界観へ参加するために、同じようなプロップスを消費するのである。この意味で、人々は都市文化を消費しているだけではない。彼ら自身が、その文化を構成する要素となっている。消費者は既存の世界観に参加すると同時に、その世界観を再生産し、次に訪れる消費者へ供給しているのである。こうした自己演技の積み重ねによって、その場所の象徴的アイデンティティは維持され、絶えず更新されていく。
したがって、都市の劇場化は、プロップス消費を包含するより大きな現象として理解されるべきではない。むしろ、都市の劇場化そのものが、無数のプロップス消費の累積によって生じるマクロレベルの現象なのである。人々が都市を舞台だから演じるのではない。人々がプロップを用いて演じ続けるからこそ、都市は舞台であり続けるのである。こうした自己呈示と世界構築の反復を通じて、都市空間そのものが劇場的な環境へと変容していくのである。
まとめ
プロップス消費によって求められているのは、商品の機能的価値そのものではなく、その商品を通じて実現される自己像や役割、さらには特定の物語へ参加する権利である。消費者は商品そのものを購入しているのではなく、その商品を媒介として特定の役割やアイデンティティ、世界観の中に自らを位置づける機会を購入しているのである。そのため、同じ役割や雰囲気、自己像を実現できる別の商品が現れれば、消費対象は容易に置き換えられる。また、その価値は商品そのものではなく、商品が可能にする演技に依存しているがゆえに、本質的な脆弱性も併せ持つ。すなわち、自己演技や役割の遂行が完了した瞬間、その価値は急速に失われ得るのである。
本稿の主張は、「消費がアイデンティティと関わっている」という点にあるのではない。その点は、消費文化研究においてすでに十分に論じられてきた。本稿では、現代の消費者が、必ずしも特定のアイデンティティを内面化したり、それに対応するモノを永続的に所有したりすることを求めるのではなく、プロップス(小道具)を通じて「あり得る自己(possible self)」を一時的に演じることを志向していると考える。すなわち、消費されているのはアイデンティティそのものではなく、望ましい役割や雰囲気、世界観の中に一時的に身を置く機会なのである。
もし記号消費を「意味の消費」と捉えることができるのであれば、プロップス消費は「自己演技(self-performance)の消費」として理解することができる。現代の消費者が求めているのは商品そのものではない。また、商品に付与された意味だけを求めているわけでもない。彼らが求めているのは、その商品を通じて実現できる自己や役割、そして特定の世界観への参画なのである。
この視点から見れば、一見すると異なる現象に思われるシェアリングサービスの普及、タイムパフォーマンス(タイパ)の追求、SNSにおける自己呈示、さらには都市文化の形成といった現象も、共通した「その時、その場でどのような人物として存在したいのか(見られたいのか)」という欲望の表れとして理解することができる。ここで重視されているのは恒常的なアイデンティティではなく、その瞬間に成立する自己である。したがって、プロップス消費とは、消費の重心がモノから意味へ、意味から自己へ、そして自己から世界観へと移行するとともに、その価値の重心が「永続的な所有」から「いま・ここで成立する自己」へと移りつつある現代社会の消費形態を形づくる象徴的な概念なのである。
(※情報提供、記事執筆:ニッセイ基礎研究所 生活研究部 准主任研究員 廣瀬 涼 )