・商品を自己を演じる小道具とする「プロップス消費」の提唱である。
・SNSやタイパ、シェア等、理想の世界観を演出する新たな消費。

プロップス消費の定義…商品そのものの機能や使用価値ではなく、その商品を消費することで自分がどのように見えるか、どのような存在として振る舞えるかというイメージを自己に付与することを目的とした消費行動

プロップス消費の本質…代替対象となる商品の機能的価値そのものを代替しているわけではない。そのため、同様の役割や雰囲気、自己像を演出できる別の商品が現れれば、容易に置き換えられてしまう。また、その価値は「その商品を持つことで成立する演出」に依存しているため、演出や自己表現が完了した瞬間に急速に価値が低下するという、脆弱で非持続的な側面も併せ持っている。

記号消費との相違…記号消費が、商品に付与された意味や象徴的価値を消費の対象として捉えるのに対し、プロップス消費は、それらの記号を自己演技や世界観への参与を可能にする媒介として位置づける。すなわち、記号は欲望の対象ではなく、望ましい自己や役割、世界観を一時的に実現するためのプロップ(小道具)として機能する。消費者が求めているのは、意味そのものではなく、その意味を通じて「いま・ここ」で成立する自己や状態なのである。

はじめに

現代の消費社会において、人々は必ずしも商品の機能や実用的な効用だけを求めているわけではない。もちろん、商品の性能や品質は依然として重要である。しかし、成熟した市場では、多くの商品カテゴリーにおいて機能的な差異が縮小しつつあり、消費者は「その商品が何をしてくれるか」だけでなく、「その商品によってどのような自分になれるか」を基準に選択するようになっている。

この変化は、ジャン・ボードリヤールをはじめとする消費社会論者が論じた「記号消費(symbolic consumption)」の延長線上で理解することができる。ボードリヤールは、人々は商品を単なる使用価値のために選ぶのではなく、そこに付与された社会的意味や象徴的価値を消費していると論じた。成熟した消費社会において、商品は機能的な道具というよりも、特定のライフスタイルや社会階層、価値観を表象する「記号」として機能するようになったのである。たとえば、高級自動車は単なる移動手段ではなく成功の象徴として、ブランドバッグは単なる収納用品ではなく洗練や社会的地位の象徴として消費される。この意味で、現代の消費の重心はすでに使用価値から記号価値へと移行している。

しかし、現代の消費行動を観察すると、消費者が本当に求めているものは、商品そのものに宿る意味ではないように思われる。人々は「成功」や「洗練」といった記号そのものを所有したいのではなく、それらの記号を用いて特定の自己を演じ、ある世界や物語、想像されたライフスタイルの中に自らを位置づけようとしているのである。

例えば、フランスのカフェで朝食をとる場面を考えてみよう。普段はクロワッサンを好んで食べない人であっても、パリのカフェに座れば、あえてクロワッサンを注文することがある。それは必ずしもクロワッサンそのものを食べたいからではない。記号消費論の立場から見れば、クロワッサンは「フランスらしさ」や「パリ的なライフスタイル」といった文化的意味を帯びた記号であり、消費者はその象徴的価値を消費していることになる。しかし実際には、人々が求めているのは「フランスらしさ」という意味そのものではない。重要なのは、「パリのカフェで朝を過ごしている自分」という特定の状況や世界観を成立させることにある。つまり、価値があるのは記号そのものではなく、その記号を通して実現される自己なのである。

同じ場所で空腹を満たすだけであれば、ドーナツやハンバーガーを食べても構わない。しかし、それでは「パリの朝を生きている自分」という感覚を得ることは難しくなる。クロワッサンは、その特定の世界観への没入を可能にする「小道具(prop)」として機能しているのである。この観点から見ると、消費者が求めているのは、クロワッサンの味や栄養価そのものではなく、また「フランスらしさ」という象徴的意味そのものでもない。クロワッサンという記号的な媒体を通じて、自らを特定の世界の中に存在する人物として経験し、ある役割を演じることなのである。価値があるのは、その役割を生き、その瞬間だけでもそのような自分になることにある。もし消費者が最終的に求めているものが、そのような「状態」や「役割」であるならば、対象を永続的に所有することは必ずしも必要ではない。望ましい状態を実現できるのであれば、モノを所有し続ける必要はないからである。

状態を消費する社会

この変化は、近年のサブスクリプションサービスやシェアリングサービス、リースサービスの普及にも表れている。かつて高級車やブランド品は、長期的に所有できること自体が経済力や社会的地位の証明となっていた。モノを所有することには、その商品を維持し続ける能力を示すという意味があり、所有そのものがステータスとして機能していたのである。しかし今日では、必ずしも永続的な所有は求められていない。高級車を購入しなくてもカーシェアで利用できればよく、高価なブランド品もレンタルサービスを通じて一時的に利用できれば十分だと考える消費者は少なくない。重要なのは、そのモノを所有していることではなく、そのモノを通じて特定の自己像を成立させられることである。

言い換えれば、人々が求めているのはモノそのものではなく、「そのモノを持っている自分」である。たとえ一時的であっても、あるライフスタイルや価値観を体現している自己を演出できれば、消費の目的は達成される。そのため、所有は必須条件ではなくなりつつある。消費の価値はモノの保有にあるのではなく、そのモノを媒介として成立する役割や気分、物語への参加に移行しているのである。

記号消費において中心であったのは商品に付与された意味であったのに対し、この文脈においては、その中心にあるのは、その意味を利用して成立する自己である。前述した通り、消費者はもはや記号そのものを消費しているのではなく、記号を媒介として自らを演出するための小道具を消費しているのである。

この変化は、マーケティング学者セオドア・レビットの有名な命題とも通じている。レビットは、「人々が欲しいのはドリルではなく、壁に開いた穴である」と述べた。消費者が求めているのは商品そのものではなく、その商品によって達成される目的であるという指摘である。レビットが指摘したように、消費者は商品そのものではなく、その商品によって達成される目的を求めている。もっとも、成熟した消費社会において、その目的は必ずしも機能的なものだけではない。今日の消費者が求めているのは、壁の穴のような実用的成果ではなく、自己像や役割、世界観への参加といった象徴的な状態である。

この構造は、プロップス消費にもそのまま当てはまる。消費者は高級車やブランド品そのものを目的として求めているのではない。それらのモノによって実現できるアイデンティティや役割、そして世界への参与を求めているのである。その望ましい状態を実現できるのであれば、永続的な所有は必要ない。レンタルサービスやサブスクリプション、シェアリングサービスが広く受け入れられている背景には、まさにこうした価値観の転換がある。

この論理は、近年日本で「タイムパフォーマンス(タイパ)」として論じられている現象とも密接に関係している。プロップス消費では、人々はモノそのものではなく、そのモノが生み出す自己や世界観を求めている。同様に、タイパにおいても、人々は経験そのものではなく、その経験を通じて到達できる状態に価値を置くようになっている。

タイパはしばしば「時間を効率的に使うこと」と理解される。しかし、その本質は単なる時間短縮ではない。筆者は著書『タイパの経済学』の中で、人々は労力や時間を短縮したいだけではなく、ある経験や知識を獲得した状態にできるだけ低コストで到達しようとしていることを指摘した。例えば映画のネタバレ動画やファスト映画の利用を考えてみたい。本来、映画の使用価値は作品を鑑賞する過程で得られる感動や驚き、余韻にある。しかし実際には、映画を最後まで鑑賞することなく要約だけを確認し、「その作品を知っている」「話題についていける」という状態を獲得しようとする人も少なくない。使用価値の観点から見れば非合理的な行動に見えるが、コミュニケーションの観点から見れば合理的でもある。重要なのは作品体験そのものではなく、「その作品について語れる状態」に到達することだからである。

フェイクリッチ

また、近年SNS上で「フェイクリッチ(Fake Rich)」と呼ばれる現象も、この傾向をよく示している。フェイクリッチとは、実際には富裕層ではないにもかかわらず、高級ホテル、高層マンションのラウンジ、プライベートジェット、高級車など、富を象徴する空間やモノを一時的に利用することで、あたかも裕福なライフスタイルを送っているかのように自己を演出する実践を指す。例えば、彼らは写真撮影だけを目的として数時間だけプライベートジェットをレンタルしたり、高級マンションのモデルルームや共用ラウンジで撮影を行ったりすることは珍しくない。この場合、目的はプライベートジェットで移動することでも、高級マンションに住むことでもない。重要なのは、そのようなライフスタイルを送る人物として他者に認識されることである。

この現象は、プロップス消費の特徴を端的に示している。もし消費者が本当に住宅や交通手段の機能的価値を求めているのであれば、このような短時間の利用で満足することはないはずである。しかし実際には、その空間や乗り物が理想的な自己像を演じるための舞台装置として機能しさえすれば、消費の目的は達成される。必要なのは本当に裕福であることではなく、「裕福な人物として振る舞うこと」なのである。この文脈で消費されているのは高層マンションやプライベートジェットそのものではない。それらを小道具(プロップ)として用いることで実現される自己イメージなのである。日常生活の実態は二次的であり、重要なのは他者の目やスマートフォンの画面の中で、自分がどのように映るかである。

このような消費行動の背景には、SNSの普及によって自己呈示(self-presentation)の条件そのものが大きく変化したことがある。もちろん、SNSが登場する以前から、人は自己呈示を行ってきた。しかし、その自己呈示は主として既存の人間関係の中で行われるものであり、家族や友人、同僚など、自分の実際の社会的地位や経済状況を知る人々の視線から完全に自由になることは難しかった。

これに対してSNSでは、現実世界の属性や制約から部分的に切り離された自己を構築することが可能になる。写真や投稿を通じて、人々は実際の経済力や社会関係資本、文化資本の範囲を超えた理想化された自己を演出することができる。

さらに重要なのは、SNSが他者の自己呈示を絶えず可視化する環境を生み出したことである。人々は日々、理想化されたライフスタイルや成功体験、充実した人間関係が演出された投稿に接し続ける。その結果、「自分もそのような存在になりたい」という欲望が生み出される。SNSは単なるコミュニケーションの場ではなく、羨望や憧れを絶えず生産し続ける装置として機能しているのである。

SNSの本質的な特徴の一つは、まさにこの「理想化された自己」が常時可視化されている点にある。人々は他者の魅力的なライフスタイルや印象的な体験、目に見える成功の証に繰り返しさらされ、それに対する憧れや羨望を抱く。そして、自分自身もまた、それに見合う自己を演じようとする。この環境では、「実際に何者であるか」以上に、「他者からどのように見えるか」が重要になる。

こうした背景のもとで、消費者が求めているのは商品そのものではなく、その商品によって実現される「状態」である。高級車やブランド品、おしゃれなカフェや観光地は、それ自体に価値があるのではない。そこで「自分はどのような人物になれるのか」「どのような物語に参加できるのか」という問いに答えることを可能にしてくれるからこそ価値を持つのである。すなわち、モノや空間を通じて実現される「状態」こそが、現代における真の消費対象となっているのである。