(ブルームバーグ):楽観はこのところ、長続きしない希少な存在になっている。トランプ米大統領は「文明全体」を滅ぼすという脅しを実行に移さなかったかもしれないが、それでも米国の道義的資本を大きく損なった。
ハンガリーでは4月の総選挙で政権交代が実現した。しかし、オルバン前首相の後ろ盾だったロシアのプーチン大統領は依然として強固に見える。あらゆる前向きな兆しの背後により大きな負の要因が控えている。
絶望を遠ざける方法が1つある。近くのコーヒーショップに行き、1杯注文することだ。コーヒーを飲んでくつろぐことは不安な時代における格好の癒やしであるだけではない。世界的に拡大するコーヒー文化はリベラル秩序の健全さを示す兆候でもある。
リベラリズム(自由主義)とコーヒーの歴史は切り離せない。コーヒーハウスは西欧で17世紀後半、リベラル思想が芽生え始めた時期に登場し、18世紀にそれが運動へと発展するのに伴って急増した。
コーヒーハウスは単に新たに輸入された黒い飲み物を口にする場ではなかった。討論の場で、自分自身を教育できる大学でもあり、異なる階層の人々が交わる社交の中心地だった。
今年亡くなった社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、コーヒーハウスが全く新しいものを提供したと論じたことで知られる。すなわち、国家や家庭から切り離された第三の空間、いわゆるブルジョワジー(市民)公共圏であり、あらゆる社会階層の人々が出会い、開かれた議論に参加できる場だ。
コーヒーハウスは通常、少額の入場料を取る一方で、自己教育や意見交換に必要な環境を提供した。好きなだけ座っていられる大きなテーブルやパンフレット、定期刊行物が豊富に用意されていた。
それまで人々が集う場と言えば、ビールを飲み交わす「エールハウス」だったが、コーヒーハウスは啓蒙的な会話により適していた。その理由は明白で、コーヒーは思考をはっきりさせ、アルコールはそれを混濁させるからだ。
この明晰(めいせき)化の効果は特に18世紀のコーヒーで顕著だった。当時のコーヒーは極めて濃く、どろりとしており、「煤(すす)のシロップや古い靴のエッセンス」のような味がすると言った客もいたという。
民主的クラブ
コーヒーハウスは新興ブルジョワ社会のインフラ形成にも寄与した。ロンドン金融街シティーはコーヒーハウスの産物であり、ロンドン証券取引所はジョナサンズ・コーヒーハウスで誕生した。世界的な保険市場であるロイズ・オブ・ロンドンはロイズ・コーヒーハウスが起源だ。
18世紀初頭に創刊された「タトラー」や「スペクテーター」といった当時の代表的定期刊行物は、本質的にはコーヒーハウスを紙の上に移したもので、1杯のコーヒーを囲んで語られる話に満ちていた。
コーヒーハウスはまた、偉大なリベラル思想家たちの拠点でもあった。アダム・スミスはロンドンのブリティッシュコーヒーハウスで「国富論」(1776年)の一部を執筆した。
啓蒙時代で最大のコーヒー愛好家は、その時代を代表する哲学者でもあった。ヴォルテールは膨大な知的生産を支えるため、1日に最大50杯のコーヒーを飲んだとされ、その一部はパリのカフェ「プロコープ」で口にした。
この店にはフランスの知識人に加え、米国の独立に貢献したベンジャミン・フランクリンや後の米大統領トーマス・ジェファーソンらも集った。
コーヒー文化は19世紀半ばから1920年代にかけて、オーストリアやドイツのカフェで最も華やかに花開いた。これらのカフェは単なるコーヒーハウスというより、「コーヒー宮殿」ともいうべき存在で、広大な空間に地元および国際的な新聞がそろえられ、客は一日中滞在できた。
そこに集った全員がリベラルだったわけではない。ウィーンのカフェ「ツェントラル」にはスターリンやヒトラー、トロツキーが常連として通い、トロツキーはここで郵便を受け取っていた。
それでもカフェは作家ツヴァイクが呼んだように「民主的クラブ」であり、ウィーンの知的エリートやオーストリア学派の創設者、フロイトら精神分析の先駆者、新オーストリア文学運動の担い手らが思想をぶつけ合った場だった。
リベラリズムとコーヒーの切っても切れない関係は、枢軸国がコーヒー文化の破壊を試みたことによっても裏付けられる。
ドイツとイタリア、日本は個人の健康と経済・社会の観点からコーヒーを問題視した。ムッソリーニはコーヒーハウスを「扇動者の巣窟」と非難し、ヒトラーの突撃隊はそれをユダヤ的だとして破壊した。日本では「米国的」だと見なされ閉鎖された。
ナチス・ドイツの青年組織ヒトラー・ユーゲントの手引書(1941年)はカフェインを若者にとって「毒」と位置付けた。コーヒーを飲むことをやめられない人々には、カフェイン抜きのコーヒーや大麦などの代用品が提供された。
イデオロギーの壁越える
冷戦は巡航ミサイルだけでなくコーヒーカップでも戦われた。そして再び、自由と良質なコーヒーの側が勝利した。
世界のコーヒー消費の約半分を占めた米国は、国際コーヒー協定を設け、コーヒー価格と中南米の生産国の安定化を図った。これは完全には機能せず、キューバやニカラグア、コロンビアといった生産国の一部は共産主義体制に移行したが、さらなる混乱は回避された。
少なくともキューバやニカラグアの国有化されたコーヒー産業は、社会主義の繁栄や安定的な良質コーヒー供給のモデルとはならなかった。
ソ連およびその衛星国の市民にとって、良いコーヒーの入手はますます困難になった。筆者が1981年に初めてレニングラード(現サンクトペテルブルク)を訪れた際、ウエーターが、コーヒーか紅茶かを尋ねたが、コーヒーを頼んでも反応はなく、しかたなく紅茶を注文するとすぐに注がれた。
ベルリンの壁崩壊後のグローバル化時代は、コーヒー勝利の時代でもあった。コーヒーハウスはイデオロギーの壁を越えて世界中に広がった。
中国では少なくとも若年層の間で、茶文化からコーヒー文化への転換が進んだ。韓国メディアは自国を「コーヒー共和国」と呼び、ソウルは人口当たりのコーヒーハウス数でサンフランシスコやシアトルを上回る。喫茶店文化が根付いている日本もコーヒーハウスの一大拠点だ。
コーヒーカップ越しに世界を見れば、グローバル経済の分断や権威主義の台頭、トランプ政権による米国運営の混乱にもかかわらず、未来は意外に明るく見える。コーヒー価格は確かに変動が激しい。昨年は過去最高に達した後、豊作を背景に最近は下落したが、中東での戦争が長期化すれば再び値上がりするのは確実だ。
それでもコーヒー革命の勢いは衰えていない。中国では消費が年20%のペースで拡大し、西側でもより緩やかながら健全な伸びを示している。小規模都市から大都市まで独立系店舗が増え、コーヒー愛好家は博士論文のような細かい注文でバリスタを驚かせている。
悲観論者は、多くのコーヒーハウス利用者がノートパソコンやイヤホンに守られた独我論者であり、中国のコーヒー文化も政治的急進性ではなく消費主義に支えられていると指摘する。
しかし、アダム・スミスも国富論を執筆する際には自身の考えに没頭していた。そして政治を語ることに消極的であっても、中国の若者は共に時間を過ごす習慣を身に付けつつある。
これは毛沢東時代には許されなかったことだ。コーヒーが自由主義を促す効果を発揮するには時間がかかることもあるが、ドリップでもハンドドリップでもフレンチプレスでも、最終的にはその効果が表れることを歴史は示している。
(エイドリアン・ウールドリッジ氏はブルームバーグ・オピニオンのグローバルビジネス担当コラムニストです。以前は英誌エコノミストのライターでした。このコラムの内容は個人の意見で、必ずしも編集部やブルームバーグ・エル・ピー、オーナーらの見解を反映するものではありません)
原題:How Coffee Houses Brewed Up Liberalism: Adrian Wooldridge(抜粋)
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