東京の下町を代表する中央区日本橋、人形町駅近くの路地にたたずむ居酒屋「キハ」には夜な夜な鉄道ファンが訪れる。横一列の座席シートにつり革と鉄道車両の内部を模した店内で、カップ酒を片手に酔客らが好んで口にする目下のさかなは23日に東京証券取引所へ株式上場する東京地下鉄(東京メトロ)だ。

脱サラして2006年にキハを開業した店主の二上登さん(49)は、録音された鉄道の走行音や車掌のアナウンスが流れる店内で「マニアの中には東京メトロの株主になりたがる人は多くいる」と述べ、株主優待を巡りかんかんがくがくの議論が交わされていると明かした。

東京メトロが新規株式公開(IPO)に際し関東財務局に提出した有価証券届出書によると、所有株数に応じ全線切符や定期乗車証を発行するほか、地下鉄博物館の無料招待券、運営するそば・うどん店でのかき揚げトッピング無料券、ゴルフ練習場の入場無料券の配布など株主優待を実施する。二上さんによると、来店客の中では投資額に対し物足りないとの声もあり、賛否は割れているという。

コーポレートガバナンス(企業統治)改革で株式の持ち合い解消が進む一方、物言う株主(アクティビスト)から経営や資本効率の改善を迫る提案が増え、新たな安定株主の育成は経営陣にとって喫緊の課題だ。少額投資非課税制度(新NISA)の拡充で株式投資に対する個人投資家の注目も高まっており、企業は株主優待も使いながら長期保有してくれるファンの獲得を目指している。

東京メトロ広報担当の八島卓也氏は、株主優待の実施について「中長期的に安定株主となり得る個人投資家による株式保有を促進する」ためと説明した。

大型上場は「株クラ」でも話題

東京メトロは1920年創立の東京地下鉄道が前身で、27年に浅草-上野間で日本初の地下鉄の営業運転を開始。41年に帝都高速度交通営団(営団)に改組し、2004年に営団の民営化によって特殊会社として発足した。現在走行するのは9路線、駅の数は180を数え、1日平均650万人の乗客を運んでいる。

23日に東証プライム市場に上場する東京メトロのIPOは、18年に上場した通信手のソフトバンク以来、6年ぶりの大型案件だ。売り出し価格は仮条件上限の1200円に決定。政府と東京都が保有分のそれぞれ50%を売り出し、3486億円を調達する。政府保有株の上場規模としては15年の日本郵政以来で、売却資金は東日本大震災の復興債の償還費用に充てる。

東京メトロ上場で盛り上がるのは鉄道ファンが集う社交場だけではない。「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェット氏もさかなに、株式投資家が金融談義に花を咲かせる東京・銀座の「投資家バーStock Pickers」で店長を務める今泉早人さんは、「株クラ」と呼ばれる個人投資家のコミュニティーで数週間前から東京メトロが話題に上っていると語った。

常連客の戸塚史明さん(54)は東京メトロの売り出しで2000株を申し込んだ。りんご風味のノンアルコールカクテル「ITバブル」を飲みながら、「利回りは一切計算していない。優待だけで応募した」と打ち明ける。投資歴23年のベテランである戸塚さんは現在、米国の債券や株式を中心に運用しているが、定期乗車証の株主優待に魅力を感じ、保有したいと思ったそうだ。

戸塚さんは、30年ほど利用している東京メトロに強い愛着があるとし、「時間通りで2-3分に1回来るところを非常に信頼している」と言う。過密で正確無比に運行される日本の鉄道は、海外の交通機関では見られない特徴の一つだ。

配当利回り3%超

8月の歴史的な株価急落や自民党総裁選後の金融市場の波乱が記憶に新しい個人投資家にとって、経営の安定性と共に3%を超える予想配当利回りは東京メトロ株を買う理由になる可能性がある。ブルームバーグのデータによると、東証株価指数(TOPIX)の予想12カ月配当利回りは2.4%、東証陸運業指数は1.8%となっている。

フランス出身で、日本に16年間住む個人投資家のフランシスコ・ベタンクール氏は東京メトロの成長は緩やかかもしれないが、「非常に安全な投資対象」とみている。物流業界に勤務する同氏は、IPOの熱狂が落ち着いた時点で東京メトロ株を買う意向だ。東京は日本の中で人口が増えている数少ない都市の一つで、長期的な投資先として理にかなっていると言う。

丸の内線新宿駅の朝の通勤ラッシュ

一方、鉄オタの中には株式上場を機に公共交通機関としての手厚いサービスが劣化してしまう可能性を警戒する向きもある。居酒屋「キハ」の常連客で、他の鉄道会社の社員でもある小川知英さん(48)は「どうしてもサービス低下になってしまうと思う」と語った。

また、4年前にキハで出会った小川さんのパートナーで、2人での鉄道旅行が趣味の吉沢あゆはさんは東京メトロ株を買おうとは「思わない」と即答。かき揚げトッピング無料券の株主優待に言及しながら、「もう少し良いキャンペーンをやってくれれば良かった」と嘆いた。

かき揚げ無料券3枚や片道1回の全線切符を年間6枚得るのに最低200株が必要。全線定期乗車証を半期に1度得るには1万株以上の保有が条件だ。売り出し価格で試算すると、定期乗車証の取得には1200万円かかる。

慶応義塾大学商学部2年の谷口玄さんも、東京メトロという企業の名前には魅力を感じているが、保有株数が少ないと受け取れる切符や無料券は少なく、株主優待狙いで購入する可能性をきっぱり否定した。

--取材協力:日向貴彦、田村康剛.

もっと読むにはこちら bloomberg.co.jp

©2024 Bloomberg L.P.