原爆が投下されて77年…。ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用を示唆するなど、核を巡る緊張はますます高まっています。こんな状況だからこそ、わたしたちは、お亡くなりになった被爆者たちの声を聴かなければならないと考えています。

きょうは、ある被爆者の苦悩です。


これは、原爆が投下されて2か月後に撮影された映像です。広島逓信病院でガラスが突き刺さった目の治療を受けている女性。松下ひささんです。幟町の自宅で被爆しました。


ひささんの次男・高倉光男さんは、家族の被爆体験を50年間、家族にさえも語りませんでした。


原爆が投下されたとき、幟町の自宅には光男さんと母のひささん、そして2人の姉がいました。ひささんはガラスを浴びて大けがをし、次女の和子さんは建物の下敷きになりました。


高倉光男さん
「一瞬、体じゅうがムチ打たれたようになって。『お母さん!』って言ったら倒れていて、『あんたたちは大丈夫か? 和子はどうした?』って」


1人、木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなりました。中学生の光男さんは姉を助けに向かいました。


高倉光男さん
「姉を助けようと行ったら『ここよ! お母さん、助けて!』って。生きているんですよ、まだ」


「2階建ての家がつぶれて、大きな梁が落ちているのに中学生が動かせるはずがありません。微動だにしません。」


「それでも泣きながら『待ってて、今、助けてあげるから』と。ふと気がついたら、まわりに火の手が上がっていた」


このままではみんな焼け死んでしまう。光男さんは、姉の和子さんを残し、重症の母・ひささんを背負って必死で逃げました。


高倉光男さん
「お母さんを助けるために姉を見殺しにしたことは母には死ぬまで言いませんでした」


母のひささんは、娘・和子さんの最期の様子を知らぬまま、1982年に亡くなりました。


高倉光男さん
「わからないんです。姉さんを助けたい。おふくろを助けるのが大事なのか、自分が助かりたいためにおふくろを背負って姉を見殺しにして逃げたのか。わたしは生きて、『お母さん、助けて』という姉を見殺しにしたことは事実です」