普天間基地の土地に沖縄戦当時、宜野湾村の街があった

戦前、当時の宜野湾村の中心となる集落などが広がっていた普天間基地。フェンス沿いを中心に今も多くの墓が残されており、米軍は1年に1度、シーミーの季節に合わせて基地への立ち入りを認めています。
「隠れることができるでしょ。(はいはい。ちょっとくぼみというか)ああいうのがたくさんあるわけですよ。右左、右左ね」
6歳で沖縄戦を経験した天久さん。当時暮らしていた大謝名地区の住民は集落の近くを流れる川沿いに点在する、崖下のガマ(自然壕)に隠れていたと言います。
「この崖の上から(米軍が)ダイナマイトを仕掛けてですね、岩を崩して、下に隠れている人が、みんなたくさん(下敷きになって)亡くなった」
両親と姉、そして生後4か月となる姉の赤ちゃんと共にガマに隠れていた天久さん。避難生活はおよそ1か月にも及びましたが、奇跡的に誰一人戦死することなく、米軍の捕虜となりました。
当時の宜野湾村の住民の多くは本島中部の収容所に送られました。天久さんたち家族も収容所を転々とし、故郷の大謝名に戻ることが許可されたのはおよそ3年後。しかし、かつての集落の面影はなく、風景は一変していました。











