見つかった校章は、学徒として動員された開南中の生徒が身につけていたものなのか…。
このガマのある福地集落出身の写真家・大城弘明さん。沖縄戦当時、ここに地域住民のほとんどが身を隠していたと聞いています。

▼福地集落出身の写真家 大城弘明さん
「父方の家族も、母方の家族もみんな入っていました。100人前後いたと聞いていています」
縦穴で約3メートルをはしごで昇り降りする必要のあるガマ。出入口は一か所しかなく逃げ場がないため、軍の陣地には不向きでした。しかし、終戦から27年が経過した1972年。大城さんが、ガマの様子を記録に残そうと初めて中に入ったとき、旧日本兵とみられる遺骨が累々と横たわっていたのです。

▼福地集落出身の写真家 大城弘明さん
「撮影した時はびっくりしました。日本兵の遺骨が15体から20体ぐらいまだ残ってた。兵隊の靴と防毒マスク、ヘルメットとかそういうのがあるので、兵隊だなっていうのがすぐわかりました」

住民の避難壕に旧日本兵が入ってきたのは、米軍が南部まで攻め込んできた6月中旬。
▼福地集落出身の写真家 大城弘明さん
「6月の中旬ぐらいに急に(旧日本軍が)来て、軍が使うから出て行けということで。まあ嫌がる人は棒で殴られたっていう人もいたよね。全員追い出されて」

住民は全員追い出され喜屋武方面へ逃げました。兵士の中に開南中の学徒がいたかはわかっていません。
▼浜田哲二さん「今ね、こういう残骨がね」
▼浜田律子さん「これはね、足の骨だと思うんだけど焦げてるんですよ」
▼浜田哲二さん「焼かれているな」
ガマの中から今も掘り出される遺骨には、焼かれた痕跡が残っていて、米軍の掃討作戦で命を落とした人のものだとみられています。

遺骨を遺族のもとに返したいと、20数年にわたって遺骨収集を続けている浜田さんは、開南中の校章が見つかったことに、ひとつの希望を抱いています。
▼遺骨収集ボランティア 浜田哲二さん
「亡くなっている(開南中の)人たちの名前がほぼ全部わかるんですよね。一部、まだ残骨も含めてバラバラとは出ているので、それを集めてDNA鑑定していく。この帽章が1つ出るだけで、(遺族を絞り込む)確率がぐっと上がってくるんですよ」
戦後80年の節目に見つかった開南中の校章…その主は誰なのか。浜田さんらは開南中出身者の遺族にDNA鑑定への参加を呼びかけています。
遺骨のDNA鑑定を希望する方、開南中学校に関する情報を知っている方は、遺骨収集ボランティアの浜田哲二さんまでご連絡ください。
浜田哲二さん連絡先:090-1080-0758
