
福田さんの提案で祖父と当時の徳安ディレクターは取材の間、福田さんの自宅で一緒に生活することに。10日間、寝食を共にしました。
浜辺さん「我々の昼飯を作ってくれた。曲がった腰で、狭い台所で作ってくれたのね。(福田さんの日常に)少しでも近づこうと思う。そういった(近づける)状況を福田須磨子自身で作ってくれたんじゃないかなと」
久富アナ「なんか福田さんの寛大さみたいなものが感じられる」
浜辺さん「というのは、彼女は自分が言いたいことを世に残したいっていうことが必死にあったんじゃないかなと今思ってるんですよ」

ありのままの姿をカメラの前にさらす。
そんな福田さんの覚悟をフィルムに焼き付ける。
互いに向き合った日々でした。

福田須磨子さん「鏡をもう見たくなくなったのね。炊事場にかけてる鏡もそれから手鏡でも何でもかんでも外に持ち出してね、叩きつけてみんな割ってしまった。情けないな思いました」
浜辺さん「カメラを向けても嫌な顔をせずにじっと撮らせてくれた。福田さんのね、それが生き様なんですよね」

被爆者・福田須磨子を追った祖父が印象に残っている取材場所の1つが平和公園です。

『石の像は食えぬし腹の足しにならぬ』
被爆後、貧困と病に苦しんだ福田さんの怒りの詩です。

取材中、福田さんは何も言わず、おもむろに立ち上がって歩きだしました。
浜辺さん「そこにいるのが被爆者だということをね、観光客の人は誰1人としてわからなかった。福田須磨子という被爆者が忘れられた一面ではあるのよね『石の像は食えない』(と記した詩)を書いた、それから長い年月が経ったよね。忘れられてしまったのかなとも思うし、忘れたらいけないとも思うしね」

被爆80年、福田さんが亡くなって半世紀以上が経ち、福田さんが生きた日々はさらに遠くなっています。
浜辺さん「(テープレコーダーで書いていた詩は)完成しないまま福田さん亡くなったんだけども、福田さんの思いってのはなくなってない。福田さんの闘いっていうのは続いてるんじゃないかな。それを我々が少しでもいいから引き継いでいってあげないといけないんじゃないかな」

祖父が記録した映像と、その背景にあった福田さんの生き方と想い。

長崎で報道に携わりこれからを生きる私たちが未来に伝え続けていくべきことだと感じました。
(久富アナウンサー)
今回改めて、祖父に話を聞いて、福田須磨子さんの信念や想いを強く感じました。取材対象者としっかりと向き合い、寄り添うことで、ニュースや番組の映像の背景にある想いも含めて届けられる記者やアナウンサーでありたいと思いました。