2人の息子を亡くしながらも 救護活動に献身

被爆した人々の救護活動に奔走する中、調教授は、2人の息子を原爆で亡くしている。

爆心地から約1.2キロの三菱兵器大橋工場で被爆した長男・精一さん(被爆当時18歳)は、背中や腕にやけどを負いながら疎開先の滑石まで帰り着いたが、8月16日、息を引き取った。

長崎医科大学で学び、行方がわからなくなっていた次男の弘治さん(被爆当時16歳)を本格的に探すことができたのは、被爆から19日後だった。

調 来助 さんの証言(1969年当時)「(木造の講義室があった場所に)4つ5つの白骨の山ができておりました。おそらく心細さに みんながかたまって そのまま焼けて死んだんだろうと思う」

「鉄の扉が倒れておって、その上にズボンの前の方のところが少し残っている」

「すると家内は『いや、これは弘治のものだ』」

それで、次男はここで死んだんだということがはっきりわかって」

それまでは どこからか帰って来るんじゃないかという風な心待ちにしておったのを、すっかり駄目になってしまったようなわけで」

臨時救護所で 調教授とともに救護活動にあたった 主任看護婦の木田 トミホさんは、当時をこう振り返っている。

宮崎(旧姓:木田)トミホさんの証言(2001年当時)「調先生は、自分の家のことはさておいて、もうこちらの方だけに一生懸命だったんだと思います。あの当時の調先生の心痛を思ったら、本当にかわいそうですね。よく私たちの世話をみていただきました。みんなのことをしていただきました」