外国人捕虜400人がいた

【福岡俘虜収容所第十四分所】爆心地から南約1.7キロ
昭和18年1月、三菱長崎造船所幸町工場内に開設され、原爆時はインドネシア、オランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカ人など約400人が収容されていた。即死60人~80人。200人余が重軽傷を負った。(「長崎原爆戦災誌」より)※原爆死は8人という記録もあり、詳細は分かっていない

およそ400人の外国人捕虜を収容していた「福岡俘虜収容所第14分所」は、爆風と並行に立っていた「赤レンガ塀」だけを残して全壊。(画像で確認することができます)。三菱は戦後、その上に新たな建物を作りました。

なぜ保存しなかった?

長崎市は「保存すべき被爆遺構はない」とした根拠について、次のように説明しています。

▶戦後の土地利用により破壊が進み、局所的かつ一部しか残存しておらず、被爆当時の「収容所」の範囲や構造をしめすものではなかった

▶被爆当時の生活面(生活遺物や被爆による瓦礫、炭化物などを含む)が検出されなかった

▶熱線や爆風、衝撃波による被害(ススの付着やせん断、ひび割れ)を物語る遺構や異物が検出されなかった。