終戦から15日で78年を迎えます。石川県能登町では終戦間際に防空壕の落盤事故が起き、掘削作業をしていた男女12人が亡くなりました。痛ましい事故で父親を失った女性は当時4歳。それでも記憶をたどり、戦争体験を語り継いでいます。

自宅に大切に保管されている懐中時計を私たちに見せてくれました。
「母親も言うとったわいね。どんな気持ちになって時計を置いて行ったんかなって」
関本満喜子さん(82)が4歳の時に亡くなった父親の遺品は、78年たった今も時を刻み続けています。

関本満喜子さん(82)

能登町宇出津で1945年6月15日に起きた防空壕落盤事故の現場は、関本さんの自宅近くにあります。関本さんに案内してもらう道中、亡くなった12人の名前が記された地蔵がありました。

関本満喜子さん
「関本乙吉と書いてあります。父親です。(12人のうち)男の人3人だけ、あとは全部女の人」

関本さんが8人きょうだいの末っ子として生れたとき、父・乙吉さんは満州にいました。
関本満喜子さん
「満州におる時に私が生れたのでまきこ、満州の満に喜ぶと書いてまきこというがです」

満州から帰ってきた乙吉さんとようやく会うことができたのも束の間、その半年後に事故が起きました。記憶に残っている父親は事故当日の姿だけ。

事故があった場所にある慰霊碑

Q ここに防空ごうがあった?
「そうそう。柔らかいやろここ、波打っとるやろ、地盤が柔らかいさけ」

防空壕があった場所を覆うアスファルトは波打っています。事故があった日、乙吉さんは予め現場を下見し、その危険性を訴えていました。しかし、海軍の船の機関士だった乙吉さんの忠告は聞き入れてもらえませんでした。

関本満喜子さん
「“あんたに何わかる?船のっとって。なんともない”と言われたと。兵隊に行くみたいな恰好をして、コップ1杯の酒飲んでかかって出ていった」

防空壕を掘るため現場に向かった乙吉さんは、そのまま帰らぬ人となりました。関本さんの脳裏には、その最期の姿が焼き付いています。

「先に入っとるさけ順番に出しとる、一番最後やった。真っ黒になって岩みたいやったわからん泥だらけで」

亡くなった12人の中には、作業に使っていたつるはしが胸に刺さったままの状態で見つかった人もいたそうです。

「ここの下に命を落としたと思ったら、もう目一杯泣くがです、毎年。今年こそは泣かんと思うけど…何でこんなとこ掘って、なんでおらのがだけこんなにならんなんと思って。このままぽつんと…忘れられるのではないか、そんなことを思う時もあります」

戦時中の悲惨な記憶を、後世にどのように残していけば良いのでしょうか。

8月4日 宇出津小学校


今月4日、関本さんが訪れたのは宇出津小学校。毎年、夏休みの登校日に合わせ、戦争について考える平和集会を開いています。校長室に招かれた関本さん、オンライン形式で子どもたちに語りかけます。

関本満喜子さん
「私は朝食べたおかずも忘れるくらいの82歳になったんです。でもあの時の光景だけは忘れることがどうしてもできません。家に帰ってきて母に“言うてきたけどダメやったわ”というてコップ1杯のお酒を飲んで出かけたのが、父を見た最後の姿です」

話し終えた関本さん、残された母と2人で過ごした日々が蘇ります。
「2人で家におるとき、はがいしな、悔しいはがいしなとばかり言うとったがですよ。なんで言うこと聞いちゃってくれたか、はがいしなあとばっかり言うとったが耳から離れないんです」

「二度とあってはならないと思う。もし喧嘩とかがあったらすぐに引き止めたりする」(男子児童)
「みんなが幸せに暮らせて、これが当たり前に思えるようになったら平和だなと後から思いました」(女子児童)

関本さんは、6年生の教室を訪れました。
「今、平和だと思いますか?そう思う人はグー、そう思わない人はパー、わからん人はチョキで」(担任教諭)

今って平和?

子どもたちの意見は分かれます。
「毎日ゲームできるから」(グーを選んだ児童)
「最近はウクライナとかロシアの領土戦争があったりして、まだもうちょっとは平和になりそうにないし…」(チョキを選んだ児童)

この平和集会で、6年生は“違いを認め合うこと”と“相手の気持ちを考える”ことをクラスの目標に掲げました。話し合いを聞き終え、関本さんが教壇に立ちます。
「この子たちは、これから平和を守っていける人たちだなと思って私は今安心しています。世界中が平和になりますように皆さんの力を合わせてくださいね」

事故のあった6月15日には毎年、児童たちが慰霊碑に足を運び千羽鶴を届けています。また、これまでに演劇で事故の様子を再現し記録としても残しました。
「これだけぬかるんでいたんじゃ、いつ天井が落ちてもおかしくない」
「外では雷が鳴っている…相当強い雨が降っている」(演劇の台詞)

演劇として後世に記録


関本さんの語り部としての活動が、当時を知らない教師や子どもたちの心を揺り動かしました。戦時中の悲惨な落盤事故から78年。関本さんが今、一番伝えたいことは。

関本満喜子さん
「きょうも一日過ごさせてもらった、人と話できた、食べることもできた。なんと幸せやろと今思う。(一方で)テレビを見たらどういうニュースが入ってくるか?おや、この人らの心の中はどんな思いなのか…本当に平和にならんがかなと思う。私もグーかパーかチョキかわからんなってきている。黒板に書いてあった“相手のことを考える”というのは、私の母も人の痛さを知る人間になれや、人の痛さを知る人間になれやと…それはやかましく言うてくれました」