生前の願いは叶わなかった岩佐さん “遺志”を継ぐには課題も多く
2005年の広島市での平和祈念式典、当時の広島市長はこう述べていました。
広島市・秋葉忠利市長(当時)「国連総会が特別委員会の勧告に従い、2020年までに核兵器の廃絶を実現するための具体的ステップを、2010年までに策定するよう期待します」

このことを聞いた岩佐幹三さんは、力を込めて「夢」を語ってました。
岩佐幹三さん「僕は被爆者の人に『2020年まで生きようじゃないか。核兵器をなくすということを見届けようじゃないか』核兵器がなくなったときに初めて僕らが生きていた意味、それがはっきりする」

「2020年まで生きよう」と話していた岩佐さんは、その年に亡くなりました。そして、強く願っていた核兵器廃絶の願いは、2020年はおろか、今も残念ながら叶えられていません。
生前、積極的に自らの被爆体験を語り、記憶を後世に残すための行動を休むことなく続けてきた岩佐幹三さん。
確かに思いは受け継がれています。ただ、記憶の継承が十分に行われていくことになるのか、多くの課題が残っています。
岩佐さんが生きていたら、光明を見出したと受け止めるのか。岩佐さんの思いや人生を賭して取り組んだ活動も、被団協のノーベル平和賞受賞に結びついた大事なピースであったに違いありません。