裁判官のみなさん
私たち原告の願いであった現地進行協議が9月13日、丸一日かけて実施されました。裁判所の英断に感謝申し上げます。私たちは裁判官のみなさんに阿賀野川の魚を捕って、毎日のように食べて生活し てきた現地に立っていただいて、当時の様子を直接、聴いていただけたことを嬉しく思っています。時間の経過は何とも致し方ありませんが、私が生まれ、育って、水俣病を発症した阿賀町釣浜の当時の様子を少しでもご理解いただけたと確信しております。

裁判官のみなさん、そして国及びレゾナックの代理人のみなさん
昭和30年、40年当時、自分たちが生きるために阿賀野川の魚を食べてきた、その魚の中に水銀の毒が入っていた、その毒が身体の中で 暴れまわって水俣病が発症した。 私たち原告は、その事実だけを自分の言葉で陳述してきました。
私たち原告が新潟水俣病であることを知ってもらうための10年間の裁判は余りにも長すぎました。私が水俣病であることを証明するのに、なぜ10年もの長い時間が必要だったのでしょうか。 この10 年があれば、私の本業である大工の仕事も続けていけたと思うし、家族でもっと楽しく生活していけたと思います。
私は10年間の裁判闘争を辛いことも多かったですが、決して悲観していません。この10年間で「困っている時に親身になって寄り添ってくれる人たちがいる」ことに確信を持ち、生きる勇気をもらいました。 私たちが訴えた熊本、東京、大阪、新潟の裁判所宛の「公正な判決を求める要請署名は全国で45万筆を超える署名が集まり、この新潟地方裁判所にはすでに8万筆を提出、今日のお昼にも2万筆の署名を提出する予定です。

私は来春、判決をいただきます。10年間闘ってきた原告団、弁護団、支援の人たち、新聞でテレビで私たちの訴えに耳を傾けてくれた世間の大勢の人たちと一緒になって、判決をもらいます。
私が望んだ判決をもらって、息子たちに伝えようと思います。ずっと会っていない成人した孫の顔を妻と一緒に見て、「頑張ったよ」と言おうと思います。
裁判長
来春の判決が近畿訴訟と同じように、すべての水俣病被害者救済に繋がる歴史的な判決となることを願って、私の結審日に当たっての最後の陳述といたします。