破滅の始まり

しかし、山崎は1949年の夏「物価統制令違反」で逮捕されてしまいます。ことさらに法定外の暴利を貪った、というのが直接の容疑でした。それを密告したのは山崎が弄んだ女のひとりの「M」嬢。じつは税務署のスパイだったという説まであります。
山崎は1か月後に釈放され、不起訴処分となりますが、出資者らは光クラブへの信用を一気に失ってしまいます。

山崎晃嗣容疑者(逮捕時・左)

その後、経営が日々悪化していく中で、山崎は3600万円(現在の価値で約36億円)もの負債を抱えます。最後の手段として、株のカラ売りで資金調達を試みましたが、切羽詰まっての「最後の一発勝負」など、うまくいくわけがありません。

山崎が服毒自殺をしたとされる社長室

結局、債務返済の前日である11月25日の未明、山崎は会社で青酸カリを飲んで自殺しました。

残された「遺書」と「辞世の歌」

山崎は丁寧な文字で遺書を残していました。
「契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ」
と記してありました。

山崎晃嗣辞世の歌「望みつ 心やすけし 散る紅葉 理知の生命(いのち)の しるしありけり」

辞世の歌には「望みつ 心やすけし」とありました。本当に「望みは満ち、心は安けし」だったのでしょうか。

皮肉なことに、山崎がカラ売りした株は、一か月後に大暴落し(売った株は大儲けとなる)、多額の利益を生み出したそうです。