吉川は3000m障害からハーフマラソン、そしてマラソンへ
吉川はユタカ技研、資生堂と在籍し、ユニクロには19年に加入した。20年開催予定が21年に変わったが、東京五輪は3000m障害で出場を狙っていた。代表には届かなかった吉川は、ハーフマラソンの日本代表を次の目標とし、その過程でマラソンも視野に入ってきた。
「5000mなら私の方が速い選手たちに、3000m障害では負けてしまうことが多かったんです。ハードリングが下手で、専門種目なのにワクワク感が持てなかった。ユニクロに入って1年目の冬期に、練習の一環で20年の大阪ハーフマラソンに出たら、初ハーフなのに優勝できました。次は世界ハーフマラソンの日本代表になろうと考えたんです」
21年の山陽ハーフマラソンで5位。世界ハーフの代表入りは果たしたが、これもコロナ禍のため大会自体が中止になった。「次はマラソン」を目標にして、22年3月の名古屋ウィメンズマラソンでペースメーカーを務め、今年1月の大阪国際女子マラソンで2時間25分20秒の5位(日本人3位)。日本代表が見え始めた。
そして10月15日のMGC(マラソン・グランドチャンピオンシップ。パリ五輪代表3枠のうち2人が決定)に挑んだが、無念の途中棄権に終わった。直前のカーボローディングの失敗と、雨と寒さの悪天候に対応できなかったことが原因だった。「マラソンの経験が少なすぎました」と完敗を認めた。
しかしマラソンに取り組んだことは、クイーンズ駅伝にも生きる手応えがある。
「年間を通して練習ができていますし、10月のMGCまで3か月、マラソントレーニングをしっかりやったタメもあります」
そして吉川は多種目をやって来たからか、マラソン練習で長居距離を走っている期間でも、スピードが落ちないタイプだという。長沼祥吾監督もそれを理解して、スタミナとスピードのメニューを偏らないように組んでいる。
「1500mを狙った練習をしていても、20kmが苦ではありませんでした。マラソントレーニング中でも1500mや3000mのメニューが入ってきます。それにプラスして私は、筋トレや補強のメニューを新しく取り入れても、以前やっていて良いと感じているものは継続します。それがケガをしない体を作ってくれました」
MGCからクイーンズ駅伝まで1か月少しの間隔だが、吉川には快走の予感がする。
森は駅伝の悔しさが個人の成長に
森の23年シーズンは、アジア選手権3000m障害代表になっただけでなく、1500m、5000m、10000m、3000m障害で自己セカンド記録をマークした。伸び悩んだ時期もあっただけに、31歳のシーズンでの充実は長距離関係者たちも驚いている。
低迷したのは18~20年。5000mで16分を、本職の3000m障害では10分を切ることができなかった。20年シーズンはクイーンズ駅伝でも、トップを行く5区の森が逆転され2位と敗れた。2位はチーム最高順位で、2区の卜部蘭(28)と3区の新谷が区間賞、特に新谷は区間2位を1分以上引き離す区間新だった。TWOLAPS TCで練習する2人が積水化学に入社し、優勝が狙える陣容だっただけに悔しかった。
森は東京五輪が行われる20年、世界陸上オレゴンの21年くらいで引退することを考えていた。だがその2大会が1年ずつ延期になったこともあるが、駅伝の悔しさがもう一度頑張ろうという気持ちにさせた。
「20年に5区で逆転されたこと、昨年メンバーから漏れて(前年優勝チームだけが付ける)ゴールドゼッケンで走れなかったこと。昨年はチームも優勝できなかったこと」が、森のやる気に火を点けた。
森は大東大時代も、クイーンズ駅伝と同じ宮城県で行われている全日本大学女子駅伝で、3~4年時は2位を取り続けた。積水化学には個人で代表を目指すだけでなく、駅伝に優勝するために入社したと言っても過言ではなかった。
20年に5区で逆転を許した森は、自己改革に取り組んだ。「駅伝が終わってすぐ、1年後に向けて365日、どう取り組んでいくかを考えました」。当時28歳。自己記録更新が簡単ではない年齢になっていたが、休日も体を動かすなど生活パターンを変更した。
「冬期に、苦手だった距離を走ることを考えました。そのためには練習を継続しないといけません。年齢的に以前と違うケアなどにも取り組みました」
以前は月間500~700kmが精一杯だったが、多い月は月間900km近い距離を走るようにした。21年2月には「苦手だったハーフマラソン」で1時間10分53秒と自己記録を大きく更新し、5月には5000mは15分42秒00、1500mで4分14秒97とトラック種目でも2週連続自己新をマークした。
そして21年のクイーンズ駅伝は1区で区間9位と好走した。チームは3区の佐藤早也伽(29)がトップに立ち、5区の新谷が区間賞と1秒差の区間2位の走りで初優勝を確定させた。「積水化学も駅伝で優勝していなかったので、大学では達成できなかった初優勝メンバーになりたい、歴史を作りたいとずっと思っていました」。
しかし22年は前述のように、故障の影響もあり駅伝メンバーに入れなかった。森は再度、自身の取り組みを見直して、充実の23年シーズンにつなげてみせた。
「今は自分を改革したことが結果に出ることが、純粋に楽しいと思えています。やらされているのでなく、自分の意思で、自主的に取り組めています。試合前の重要な練習は緊張もしますが、いつも通り楽しむことを心がけている。その結果が安定した成績に現れています」
多くの種目に取り組んだことも、「良いサイクルになっている」と感じられている。森の強さは、クイーンズ駅伝のどの区間でも発揮されるだろう。