1981年の国際障害者年を記念して始まった大分国際車いすマラソン。世界最高レベルのレースとして毎年開催され、熱戦が繰り広げられている。大会を影で支えているのが多くのボランティアだ。この中で通訳を務めていた池田裕佳子さん。2001年に大会と出会って以来活動を続け、記者会見や優勝インタビューなどトップアスリートの横にはいつも彼女がいた。しかし2020年、脳腫瘍のため他界。47歳という若さだった。人生をかけてパラスポーツに情熱を注いできた彼女の“生きた証”を追う。
福祉ではなく、スポーツとしての車いすマラソン
世界初の車いす単独マラソン大会として1981年に誕生した大分国際車いすマラソン。大会を呼びかけたのは「日本パラリンピックの父」と呼ばれた医師の中村裕博士だった。中村博士が当初目指したのが「別府大分毎日マラソン大会」との同時開催。しかし、陸上競技のルールや大会運営上、車いすでの参加は認められず、単独での大会となった。
その後、規模は拡大し、世界記録を生むなど歴史を刻んできた大会だが、行政・マスコミでの扱われ方はスポーツではなく、福祉としての側面が依然として強いままだった。
「別府大分毎日マラソンと同じように競技として認めてもらいたい」。選手や大会に携わってきた人たちの悲願の一つがテレビの全国生中継だった。ただ、車いすマラソンは最高時速60キロを超えるスピードの上、一部区間はコースも狭く、大型の中継車が入ることもできない。さらに、放送に向けてはスポンサー確保といった大きなハードルもあった。2016年第36回大会、長年の悲願を達成するため、中村裕博士が創設した「太陽の家」の共同出資企業グループが中心となって資金集めに奔走。テレビによる完全生中継にこぎつけた。
その実現を人一倍喜んでいた一人が、今は亡き通訳ボランティアの池田裕佳子さんだった。英語とフランス語が堪能だった池田さんは、選手を支える通訳ボランティア組織「Can-do」で長年トップ選手の通訳を務め、選手が抱いたアスリートしての思いを最も身近に感じていたからだ。

池田さんは、初のテレビ中継となる大会で、当時6連覇中だったマルセル・フグ(スイス)の通訳を担当。テレビの生中継となれば、決まった時間内で端的に伝えることも求められる。池田さんはいつも以上に入念に準備を進めていた。
Can-doで一緒に活動してきた藤田容子さんは、常にアスリートファーストで考え続ける彼女の姿が今も焼き付いている。

Can-do 藤田容子さん:
「裕佳子ちゃんはとてもまっすぐで、選手の皆さんへ常に深い愛情をもって献身的につくしていました。選手が話している内容をちゃんと訳すということだけではなく、彼らが伝えたい思いがきちんと皆さんに伝わるようにどの言葉や表現を使えばいいか、日頃から日本語についても学んでいました」