「巨人の星」は原作者との「星飛雄馬と花形満のような」ライバル関係から生まれた

川崎のぼるさん「手塚治虫さんの『新宝島』(1947)を子どもの頃に読んで衝撃を受けた。映画のようなコマ割り、ストーリー漫画の原点、手塚先生がその後の日本マンガ界に大きな流れを作った」

手塚作品の影響を受けて漫画家を志した若者たちが、次々と作品を生み出すようになります。

その一人であった川崎さんも大阪で「貸本屋の漫画家」としてデビュー。数年後、「ゴルゴ13」などで知られる「さいとう・たかを」さんたちから「劇画工房」に誘われ、劇画の道に進みます。

しかし、川崎さん自身は自分のマンガを「劇画」だと思ったことはなく、こだわらずにあくまで「マンガ」を描いてきたと話します。

そんな中、運命のプロジェクトが動き出します。

後の代表作となる「巨人の星」の作画として川崎さんに白羽の矢が立ったのです。

川崎さん「1960年代、野球漫画は絶対に必要なジャンルだった。当時の講談社社長が『マガジンに野球漫画がない』と言及したことをきっかけに野球を題材としたマンガの企画が持ち上がった。編集部は当初渋っていた梶原一騎さん(原作者)を説得して『巨人の星』の連載がはじまった」

当時は「マガジン」・「サンデー」の人気が拮抗していたが、この「巨人の星」の連載が始まると少年だけでなく中高年や大人までも熱中するなど大人気となります。

なぜ「巨人の星」はそこまで支持を得たのでしょうか?

川崎さん「少年の主人公が悪に勝つという勧善懲悪から、もっと現実的な、リアルな路線が好まれた。『巨人の星』の主人公や登場人物は、スランプになって落ち込みもするし、お金の問題も出てくる。それまでそういうのはなかった。読者は『これは自分ではないか?』と共感を持ったのだと思う」

さらにその2年後、マガジンで巨人の星と同じ梶原一騎(高森朝雄 名義)さん原作の「あしたのジョー」の連載が始まると、この2つの人気作品が大きく牽引し「週刊少年マガジン」はマンガ雑誌として圧倒的な地位を確立していきました。

川崎さん「梶原(一騎)さんからシナリオではなく小説のようなスタイルで原稿用紙に書かれた原作が送られてくる。4Bの鉛筆で、手書きだった。筆がのってくると文字が乱れてくるというか、梶原さん自身の興奮度が伝わってきた。なので、その『熱』も読み取れるよう必ず編集に言って『生原稿』をよむようにしていた」

5年に及ぶ連載の間、原作者・梶原一騎さんとは数回ほどしか顔を合わせなかったとか。ただし、編集部を通して、都度都度お互いの感想は伝えていたといいます。

川崎さん「お互いに刺激を与えたライバル(まるで星飛雄馬と花形満)のように思っていた。『原作はいいのに絵がイマイチだ』と言われるのは絵描きにとって屈辱。この原作に負けないようにと必死に絵を描いた。こんな丁々発止が何年も続いた」

お互いにライバルとしてぶつけあった才能が化学反応を起こし、名作「巨人の星」が生まれたのです。

川崎さん「あの作品で僕も梶原さんもこの世界で男になった」