■“沖縄なら、住民は反対するだろうが彼らは何もできない”

<プライス勧告 米国下院軍事委員会 1956年6月>
強権的な土地接収の正当性を述べる調査報告書(プライス勧告)には、“ここでは、我々が核兵器を貯蔵、使用する権利に対して何ら外国政府の制約を受けることはない”と書かれている。

そして、沖縄はアジア最大の核兵器基地になっていく。

核ミサイル・メースBの前身「マタドール」は、当初、福岡の芦屋基地への配備が検討された。だが、日本本土の強い核アレルギーから、岸政権の政治的自殺になる、と考えた。

“統治下にある沖縄なら、住民は反対するだろうが彼らは何もできない”(米空軍 第313航空師団 歴史報告書)

琉球大学 我部政明 名誉教授
「沖縄にもっていけば政治的な問題を解決できる。力でもって押しつぶすことができるということがあって、沖縄には自由に核を装備した部隊が1950年代後半から60年代の半ばくらいまでかなりの多くの部隊が駐留することになる」

配備は急速に進められ、ナイキ、メースB、ホーク、3種類のミサイル基地あわせて20か所が完成した。配備された核兵器は最大1300発。中でも、すべてのミサイル基地があったのが読谷村だ。

読谷村は、沖縄で最も早く核基地となった場所である。ミサイルの標的は共産圏だった。

<読谷村のミサイル基地>
1959年の初めてのナイキミサイル発射実験。サトウキビ畑を焼く事故が起き、翌年からあの伊江島を望む岬から発射されるようになった。発射に際しては、ミサイルを展示しての説明会が行われ、観客席も設けられた。日本の自衛隊幹部が説明を受け、隊員も発射の様子を見学していた。

<「MORNING STAR」紙より 那覇市歴史博物館提供>
地元の人々も工事に駆り出され、メースBの基地が完成した。

アメリカ軍で働いていた儀保盛市さんにとって、核はいつもそばにあった。

<アメリカ軍で働いていた 儀保 盛市さん>
儀保 盛市さん
「嘉手納の弾薬庫にも行っていた。核が入ってるのは印が入れられているが、印を自分たちには教えてくれない。こっちは普通の弾じゃないよ、特別ですよって言われてるが」

その弾薬庫は、嘉手納基地の北側に位置する一帯(嘉手納弾薬庫地区)にある。読谷村にも隣接する場所だ。点在する貯蔵庫に様々なミサイルや爆弾が保管されている。

<嘉手納弾薬庫地区 国土地理院提供 1970年12月7日撮影>
この地区を写した沖縄返還前の航空写真は、黒塗りにされた部分が多くあり、それが核貯蔵施設とみられている。

儀保さん
「ありますか、ないですかって聞いたら、あるとも言えない、ないとも言えないと。どこがそう教えてるかって聞いたら、ジャパニーズガバメントって言ったんですよ。あんたたちのジャパンの偉い人はあまり偉くない。ジュニアハイスクールと言っていた。ジュニアハイスクールの人が大臣だから何もできないと笑ってた」

<小坂善太郎氏と機密文書(1961年11月13日)>
当時の外務大臣・小坂善太郎は、ミサイル搬入の際の世論の反発を恐れ、アメリカにこんな要請をしていた。

“沖縄にもっとひっそり持ち込めないか”