戦犯として処刑された人たちの遺書は、「世紀の遺書」の名で刊行された。

◆藤中松雄が問われた「石垣島事件」

世紀の遺書

1950年4月7日にスガモプリズンで命を絶たれた藤中松雄。幼い息子たちに向けて「戦争絶対反対」と書いた遺書は、1953年に刊行された戦犯たちの遺稿集「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会)に収録されている。妻や息子ら家族親族に宛てた文章のほかにも、米軍将校が居並ぶ中での死刑執行の宣告の様子なども細かく書かれている。
藤中松雄が戦犯に問われた事件は、1945年4月15日沖縄県の石垣島で米軍機の搭乗員3人が殺害されたというもので、「石垣島事件」と呼ばれている。3人の殺害に対して、元日本兵41人が死刑を宣告され、松雄を含む7人に絞首刑が執行された。BC級戦犯を裁いた横浜裁判では、「九大生体解剖事件」「バターン死の行進事件」と並んで、俗に言う「三大事件」に挙げられていた。

◆感じた「違和感」

横浜裁判 九大生体解剖事件(米国立公文書館所蔵)

日本の戦後史にまつわる多くの著作がある上坂冬子(1930-2009)は、「巣鴨プリズン13号鉄扉」(新潮社、1981年)で、かなりのページを割いて松雄の遺書を紹介している。次男の孝幸さんによると、上坂が藤中家を訪れたのは2回。松雄の妻、ミツコとその母、ミヨが取材に応じたという。松雄は藤中家に婿養子に入っているので、ミヨは妻の母というより、戸籍上は養母となる。上坂の著書には、アメリカ国立公文書館から石垣島事件の裁判に関する文書を取り寄せ、英文タイプ1629ページに及ぶ公判記録は膨大なものだったとある。殺害された3人の米兵のうち2人は首を斬られた。残る1人は杭に縛られ、数十人の兵士から銃剣で突かれたという。

藤中家にお邪魔して松雄の次男、孝幸さんにお話を伺ったところ、気になることがあった。
「お父様が戦犯に問われたのはどうしてですか?」と聞いたところ、「米兵にとどめを刺したようだ」と答えたのだ。「とどめを刺した」ということは最後に刺したという意味だろう。
しかし、上坂の著書には、「松雄は最初に刺した」と書いてあった。

最初か、最後か。この違いはどこからきているのだろう。