凄惨な地上戦が行われた、78年前の沖縄。国に動員された多くの10代の子どもたちの中に、知られざる“少年ゲリラ部隊”が存在しました。TBSテレビ「つなぐ、つながるSP 戦争と子どもたち 2023→1945」では、その元少年兵の1人を俳優の秋元才加さんが取材しました。
震える声で「すまん、すまん・・・」
7月下旬、秋元さんが訪ねたのは、瑞慶山良光さん(94)。瑞慶山さんは少年ゲリラ部隊「護郷隊(ごきょうたい)」に16歳で入隊しました。護郷隊は、15歳から18歳の少年を中心に、およそ1000人で構成されていました。
瑞慶山さん「会いに来ましたよ…。(指をさして)同級生ね。これも同級生ね」
慰霊碑には、命を落とした少年たちの名前が刻まれています。6人に1人が命を落としたのです。
瑞慶山さん「宮城行平は栄養失調で…戦じゃ倒れていない。栄養失調で道端で倒れてね、そのまま」
秋元さん「自分たちが生きていくためにも、負傷した人は…」
瑞慶山さん「手が貸せないわけ。自分たちが歩くので精一杯だからね。すまん、すまん…」

震える声で慰霊碑に手を合わせました。
瑞慶山さんには、忘れられない歌があります。それは、護郷隊の歌。
「死所を求めて ああ死所を得たり 郷土を護るは この俺たちよ」
歌を含めて、彼らの教育に当たったのは、陸軍のスパイ養成機関「中野学校」の出身者たち。少年たちは教官から、ゲリラ戦のやり方も教え込まれていました。
米軍が上陸してくるなか、少年たちが潜んでいたのが、深いジャングルです。下された命令に従い、10キロの爆薬をかつぎ、敵の戦車に忍び寄り…爆薬に火をつけ逃げ戻る。それは、決死のゲリラ戦でした。

瑞慶山さん「四つん這いになってほふく前進。銃を上に上げて、こうして肘で歩く訓練。そうしてアメリカ軍の兵隊が眠っているところまでたどり着いて、爆薬に火をつけて一緒に吹っ飛ぶと。死にに行くわけだよ」
上官の命令に、何の疑問も持ちませんでした。
秋元さん「戦争に行きたくないなとか、行かなきゃいけないのかなと思ったことは?」

瑞慶山さん「そういうことを考えていたら『国賊』といって皆が相手にしないですよ。僕たちはただ『10人殺したら死んでもいいよ』とか、『戦車1台壊したら死んでもいいよ』とか、(上官から言われていたことは)これだけだからね」
護郷隊を研究する瀬戸隆博さんに、少年たちが潜んでいたジャングルを案内してもらうと、彼らの痕跡が今も残っていました。
恩納村史編さん係 瀬戸隆博さん「穴がいくつかポコポコと開いているんですね。これは掘ったものですね」
点在する幾つもの穴。
日本軍の組織的戦闘が終わった後も、護郷隊は山中で戦いを強いられました。本土決戦を遅らせるために…。