1950年4月7日、スガモプリズンで最後の死刑が執行された。そのうちのひとりが藤中松雄だった。
◆藤中松雄の遺族を訪ねて

福岡県の嘉麻市碓井平和祈念館に藤中松雄の遺書があることを知った私は、ドキュメンタリー番組の制作を視野に、まずご遺族に会うことにした。松雄の次男・孝幸さんが取材に応じてくださった。旧碓井町のご自宅は、昭和の時代に建てられた日本家屋が立ち並ぶ一角にあった。近くに麻生吉隈炭鉱があり、鉱害対策で同じ時期に一斉に建て替えられたのだという。
◆農家の4男 19歳で藤中家の婿養子に

藤中松雄は、1921年(大正10年)4月10日生まれ。生家は大きな農家で、四男だった松雄は太平洋戦争の前の年、19歳で藤中家に婿養子に入った。妻ミツコはふたつ年下で、結婚当時は17歳だった。
◆終戦後に次男の孝幸さんが生まれた

次男の孝幸さんは1947年生まれ。松雄が終戦後、故郷へ帰ってから授かった息子だ。父が命を絶たれたのは3歳の時。生まれて半年後にスガモプリズンに収監された父の記憶はない。松雄の葬式の写真が残されているが、よだれ掛けを身に着けた孝幸さんは、カメラマンの方を向いて無邪気にふるまっている。27歳で夫を失った母ミツコは、父のことはあまり話さなかったという。
藤中孝幸さん
「お袋はね、長年一緒におったけどそういう話は全然せんやったですよ。親父の話は。ただ、家におって連れて行かれる話とか、ただあんたをおぶって面会に行ったっていう話しか、せんやったもん」
孝幸さんも、戦犯に問われた父のことは話さなかった。
藤中孝幸さん
「18の時、履歴書を書いたときに親父の欄があったけん、戦死って書いたんよね。戦死って。そしたら年が合わない。1945年に終戦だけど、俺、1947年生まれやから。
そんなで聞かれたことがあって、その時初めて戦犯で亡くなったっていうことを面接受けた人に言ったことがある」