「救われた」安堵した瞬間
この試合は途中から雨となり、延長戦になって大雨に。ボールがすべり、制球を乱した作新学院のエース江川卓投手は 12回裏1死満塁のピンチを招く。球審・永野さんは「タイム」の要求を受けた。(あれ?こんな状況下で何だろう?)と思ったそうだ。カウント3ボール2ストライク 。江川投手は内野手全員をマウンドに集めた。話し合いは20秒ほど。そして皆、定位置へ戻ったという。
この時、江川投手は「次の球は力いっぱいのストレートを投げたい」と告げたのだった。永野さんによると、本人はチームメイトに「ふざけるな、ここで負けたら終わりなんだからちゃんとストライクを入れろ」と言われることを覚悟していたというが、「おお、いいよ。ここまでこられたのはお前のおかげなんだから、お前の気の済むように投げろ」という内容の言葉をくれたそうだ。
直後、江川投手が投じた この試合169球目のストレートは、明らかに高く外れる「ボール」で押し出し。0対1のサヨナラ負け。「昭和の怪物」最後の甲子園は幕を下ろした。
「審判員は私情を挟むことはない」と断言する永野さん。手加減したりすることも勿論許されないが、この試合だけは、終わってから(あ~救われた)と安堵したそうだ。もし、勝敗が逆になっていたら、あのホームベース上の「誤審」による悔いはさらに大きくなっていたと思われる。
この戦いから10日ほど経ってから、高野連が全日本チームを編成して韓国遠征に行った。作新・江川投手も当然選ばれた。永野さんもその一員として帯同、遠征中に江川投手と話す機会があったという。入学以来、マスコミを初め、常に追いかけまわされる日々が続いていて、チームメイトに対して「本当に申し訳ない」と感じていたことを語ってくれたという。それで、銚子商業戦の最後のマウンドでのやりとりとなっていったのである。

「審判のなり手がいない」という窮状を訴える声が日本各地から聞こえてくる。インターネット社会になり「誤審騒ぎ」はすぐに拡散。審判の方々への風当たりは永野さんの現役時代より急速に大きくなってしまう時代。
105回となるこの夏の甲子園大会も“奉仕活動”として高校野球を支えている審判のみなさんには敬意を表したい。永野さんは住友金属(当時)社員だった。春・夏の甲子園大会の期間は会社に休暇申請し審判員として球児たちを支えた。

「審判がいたかどうかわからない試合がいい試合なんです」そう言い続けていた永野さんは57歳で一線を退いた。甲子園のグラウンド上で300試合を見届けた。「誤審」はあってはならないが、苦しみは審判員も一生背負う。87歳の“レジェンド球審”は静かに打ち明けてくれた。