「明らかな私の誤審です」

『審判として、大きな誤審を犯してしまったことが残念ながら幾つかありますが、その中で最も物議を醸し、即ルール改正へと直結した誤審をしたのが、1973年(昭和48年)、夏の甲子園大会に於ける「銚子商業」(千葉)対「作新学院」(栃木)戦に於ける捕手によるホーム・プレートのブロック(走塁妨害)行為に対する判定ミスでした』

審判用シューズには今も甲子園の「土」

1973年8月16日の銚子商業と作新学院の一戦。試合は、0対0で延長戦に入り、10回裏、銚子商業が2死走者2塁と1打出ればサヨナラの場面。放たれた打球はライトへ。走者はホームのそこまで来ている。ライトからの送球もそこまで来ている。

走者は頭から滑り込んで来た。その時、作新学院の捕手はボールを持たないで、本塁をブロックしていた。タイミングは明らかにセーフでサヨナラの状態。しかし、ヘッド・スライディングした走者の手はおよそ50センチ手前でブロックされて、捕手の左足に押しつぶされた状態でホームベースには届いていなかった。

この時、球審・永野さんはこの妨害行為をオブストラクション(走塁妨害)として判定せず、「アウト」を宣告したのだった。振り返って「明らかな私の誤審です」と告白した。すぐにアウトを撤回して、得点を与えるべきだったのを、やり過ごしてしまった痛恨の大誤審だったとのこと。「少し時間が経っても判定を撤回すべきだった・・」と今でも悔いが残る。

このプレーと判定がきっかけで、ルールブックが変更となった。「捕手は既にボールを所持している時しか塁線上に位置することができない」と明記されたのだった。永野さんが「アウト」を宣告した瞬間、滑り込んできた走者の顔を見ると、鮮血に染まって顔が真っ赤になっていたという。

『実は後にも先にもこの時だけ(銚子商業が勝ってくれないかな…)と正直祈るような気持ちになってしまいました。いけないことではあります』