うたさん「ここは、生き合い、死に合う島」

(小澤さん)
「本当に、私も豊島に来始めの頃は、あまりに頻繁にあるお葬式に戸惑うばかりだったんですけど」

「皆さんどうしてるのかなとか思ったら、一見抑えた表情の中でも『順番やからな』『もしかしたら今日のお亡くなりになった人が私だったかもしれない』という気持ちはみんな持っていて」

「死ぬっていうことが、特別なことじゃなく、みんなの毎日の気持ちの中にあるんですよね」

「抱き合うとか泣き合うとか、というのと同じ関係性で、生き合ったりしてて、お互いに生きるってことは感じやすいけど、死に合ってもいるっていう」

生き合って、死に合う。。。高齢化が進む島の現実です。多くのお年寄りたちは日々、生と死に向き合って生きているのです。

「はよ連れにくりゃいいのに」息子に先立たれたヤチヨさん(102)

この日訪れたのは、102歳になるヤチヨさん。2年前に75歳の息子を亡くしていました。

(ヤチヨさん)
「もうね、息子と代わってりゃいいのにね。息子が先に逝ってしもうて。思うようにいきません」
(小澤さん) 
「でも急がんでも晴敏さんね、先に逝ったら逝ったで待っててくれよりますから」
(ヤチヨさん)
「そうじゃろかな」
(小澤さん) 
「まだ来んでもええいうかも知れない」
(ヤチヨさん)
「はよ連れにくりゃええのにね」
(小澤さん) 
「そんなことないのに」

豊島にうたさんを導いた ヤチヨさんの息子・晴敏さん

一昨年、胃がんで亡くなったヤチヨさんの息子・晴敏さん。実はうたさんが豊島に移り住むきっかけを与えてくれた1人でした。

(生前の晴敏さん)
「豊島が元気づくことやったらやろうやと、いや、やらんかい、というようなことになったんで」

島の住民たちが戦ってきた、大きな社会問題にもなった、豊島の産業廃棄物の不法投棄。晴敏さんは、その住民運動のリーダーの一人でした。

(高齢女性・当時の集会)
「海の砂からみな真っ黒。あんたは国会のえらもんでしょうが、香川県の県知事さんにちーと意見してください」

事件発覚から25年。島の住民たちは、2000年に産廃の完全撤去を含む公害調停成立を勝ち取りました。

(2005年・生前の晴敏さん)
「平成5年の11月から、産廃問題で闘ってきた住民のうち、既に142名の方が亡くなっております。住民運動に参加した私の名前も、壁に貼られていますけど、多分大きな喪章がそのうちつくと思うんです」

「そうすると、豊島でどんなことがあったんか、喋れません。この壁に保存してある産廃の『現物』が、きちっと喋ってくれるんではないかなと思っております」

学生時代、児島晴敏さんたちの活動に導かれるように、豊島にやってきたうたさん。このときからさらに10年間で150人が亡くなっていました。晴敏さんの名前にも、喪章が付けられていました。

(小澤さん)
「児島晴敏さん…やっぱり未だにちょっと信じられないとかありますけどね。ずっと豊島の産廃を案内されて、仁王立ちになってね説明するのを、中学生とか小学生も『晴敏さんの説明はよくわかって勉強になりました』って書いてくれたんですけどね」

「小難しいことを考えたり悩んだりしてると、『頭でっかちにならんでええんや』って言って、『自分が幸せが何かって知っとんか』みたいな感じで」