■付き人から氷川きよしの専属司会者に

技術スタッフとして働き始めた2年後、音楽ジャンルの中でも特に演歌を担当したいと懇願していた西寄に「森進一の付き人をやらないか」と所属事務所の専務からオファーがあり、二つ返事で快諾、会社を退職した。そして付き人となって初めての地方巡業で思わぬ縁を感じたという。初ステージの場所が地元・大分にある別府温泉・杉乃井パレスだったという。

「子どもの時、よく親と一緒に遊びに来ていた杉乃井パレスが最初の巡業先でした。当時、歌謡ショーが頻繁に開催されていて、そこはまさしく芸能の原点だったんです。その会場に森さんの付き人として訪問し、ちょっと衝撃を受けました、特別興行で3日間のステージでしたがもう満杯で…それが付き人としての新たな僕のスタートになるわけです」

付き人となり3年目。忘年会の幹事をきっかけに翌年3月から始まる森進一のツアー80本の司会に抜擢された。

「一度はためらいました。しかし、森さんから今後チーフマネージャーになるにしても表舞台に出る人の気持ちをわかることがとても大事だと言われ、一度経験してみようとやってみることにしました」

「子どものころから歌謡ショーをたくさん見ていたから全部自分の中に染み込んでいたんです。僕、ちょっと変わっていて普通、歌謡ショーに行ったら歌手だけ見るじゃないですか。でも僕は全体の額縁で見る癖があるんです。だから背景のセットや照明、どのタイミングで司会者が出て来るのか…学校の勉強は全くできなかったけど、ステージの内容は一発で覚えていたので子どものときの経験がいかされました」

「中学生のときに初めて見た鳥羽一郎ショーで『兄弟船』のイントロの前口上を当時からずっと覚えています。『親父が残したこの船は俺と兄貴の宝の船だ。波に濡れてもいつまでも心濡らさぬ男じゃないか。昭和57年、鳥羽一郎旅立ちのデビュー曲、兄弟船をあたなの胸に』と言ってたんですよ。これをメモも取らず記憶しています」

付き人兼司会という立場で舞台デビューを果たした西寄に、森進一が芸名をつけようと提案。姓名判断の専門家から芸名を受け取った。

「その先生からお前は何となく人を明るくさせるようなオーラをまとっている。朝日が昇る勢いでやっていかなきゃダメだと言われ、だから西よりも東がいいんだよって。それで『西寄ひがし』になったんです」

西寄の評判は次第に業界内に広まり、他の事務所からのオファーも増えてきた。司会業1本でやっていこうと決心した27歳のとき、西寄にとって大きな転換点を迎えた。それはデビューしたばかりの氷川きよしからの司会依頼だった。

「歌謡ショーの司会者ってベテランの人が多かったんです。宮尾すすむさんや綾小路きみまろさんをはじめ。そういったこともあり、事務所側が氷川さんの気を使って年齢が近かった自分に声をかけたと思います。本人と4歳差でしたから」