もう一つの「当たり前」のことへの気づきと「報じる」ことの重み

今回、寝屋川事件での特定少年の実名発表に触れることで目を覚まされた思いだ。報道の現場に身をおき放送を通じ多くの事件・事故を伝えてきた。しかし、自らを振り返って本当の意味で深く「実名」や「匿名」で伝えること、報じることの意味を考えてきただろうか。毎日のように起きる事件・事故に追われ、忙しさにかまけて流れ作業的に「実名」か「匿名」か、選択してきたのではなかろうか。立ち止まって考える時間が無いのが現実なのだが、私たちが勝手に「小さな事件、事故」と断じてしまっている一つ一つの事件・事故にも当然、被害者がいて加害者がいる。どちらの立場にも家族、友人、周囲の関係者、影響を受ける人といった当事者がいる。そして、それぞれの人に人生と暮らしと将来がある。「実名」か「匿名」かだけでなく広く社会に向けて「報じる」ということは、それぞれの当事者に対して一定の責任を負っているのだ。長く報道の現場にいながら恥ずかしいことなのだが、そんな当たり前のことにもう一度気づかされた思いだった。特定少年の報じ方も含め、報道のあり方、捉え方、伝え方は時代とともに変わってくるだろう。だからこそ、いま「報じる」ことの重みを改めてかみしめていきたい。


大八木友之(MBS統括編集長 報道キャスターから転身し記者・デスクへ 2021年4月までフランス赴任しJNNパリ支局長を務める)