75年の歴史に幕を下ろす木造高校深浦校舎。その前身である深浦高校は野球部が1998年に夏の高校野球青森大会で0―122の大敗を喫しました。高校球史に残る歴史的な試合を生んだドラマをかつての選手たちに取材しました。
木造高校深浦校舎。ここに保存されているのが前身である深浦高校の野球部のユニフォームです。その存在が全国に知れ渡ったのが1998年、夏の高校野球青森大会でした。

対戦した東奥義塾の猛攻で初回に39点、2回に10点。すべての回で2桁得点を奪われ0―122の大敗。高校球史で最も点差がついた試合となった歴史的な一戦です。
※当時主将だった角谷宗一さん
「ある意味人生が変わったと思います。色んな所に行って当時は深浦高校の名前を出すと『あ~、あの!』という反応が全国どこでもあったので」
「最初から勝てるわけないと思っていたんで。最後の3年生の引退試合」

春先には野球部員は角谷さんを含め4人しかいなかったため、1年生6人を勧誘して大会出場にこぎつけていました。その新入部員の一人だった弘前市の会社員松岡拓司(まつおかたくじ)さんです。中学時代も野球部員だった経験を買われ、あの試合ではキャッチャーを任されました。
※当時1年生でキャッチャーだった松岡拓司さん
「ボールが飛んで行ったときに『何とかアウトにしてくれ』『何とか取ってくれ』って思いでキャッチャーから守備へ声かけしていました。基本的にはみんな、もうだらけている、諦めている顔はしていなかったと思う。なんとか1アウト取ってやろうってみんな必死になってやろうとしていた」

初回から大差がつき、勝敗は決したかのように見えました。それでも、ひたむきにプレーをする深浦ナインに球場の空気は変わっていきます。深浦がアウトを1つ取るたびに観客から送られた拍手。
※当時1年生でキャッチャーだった松岡拓司さん
「捕った本人もうれしいのか、その所で笑顔になったりとか、まだ頑張るぞ!ってつながっていたと思う」
※当時主将だった角谷宗一さん
「声かけてもらって(プレーで)こたえたいけどこたえられないところはありつつ、ただ、それで気持ちを奮いあがらせているというのはあった」

こうして試合が進むなかで、大きな決断を下そうとしたのが当時の深浦高校の監督で、現在は八戸高校野球部で顧問を務める工藤慶憲(くどうひろのり)さんです。あの日は、5回が終わった時点で点差は93ありました。当時は5回コールドというルールはありませんでしたが、工藤さんは選手に尋ねます。このあとも試合を続けるか放棄するか。あるいは監督の判断に任せるか。