■「誘爆すれば沖縄全滅」 “核シェアリング論”を「罪悪」と断ずる沖縄の思い


そのひとつ、嘉手納弾薬庫で多数の核兵器が管理されていたと話すのは、地方議員だった大城朝助さん。

大城朝助さん
「山全体が弾薬庫です。ここで核兵器の整備をやっていた。航空機で運んできた核兵器はここ(嘉手納基地)にあって、整備に行くときは、(道路を)遮断して、ここから核兵器も航空機のミサイルも運んでいたわけです」

その目の前で、ベトナム戦争の真っ只中の1968年、アメリカ軍のB52爆撃機が墜落した。


大城さん
「ここ(墜落現場)からちょっと行ったら核兵器があるわけですからね、核の倉庫が。本当に核倉庫の上に落ちてもおかしくないような事態が、当時は続いていた」

弾薬庫の近くに住む島袋善祐さんの自宅には、墜落した機体の一部が保管されていた。事故翌日の新聞も、こう報じていた。


「誘爆すれば、沖縄全滅」

今、島袋さんが思うこととは・・・

島袋さん
「大変なことがどんどん続いて、これも50何年なのかね、戦争が終わってから何年か。戦争終わっているという人もいるけど、私たちからすると続いているんだ」

大城さんも、核シェアリングの話が持ち上がっていることに憤る。

大城さん
「(核共有がされれば)まず第一に沖縄に持ってこられると思いますね。抑止じゃなくて呼び込みですよ」

核の脅威にさらされていた当時の沖縄は、1972年の返還に向け「核も基地もない平和な沖縄」の実現を訴えていた。

元衆議院議員の古堅実吉さんは、B52と核兵器の撤去を求めて、東京に直談判へ向かった。相手は、時の総理・佐藤栄作だった。


古堅実吉氏
「我々に屈辱きわまりない、佐藤総理の当時のああいう発言。あんなに大変な兵器が持ち込まれて大暴れしようという、それに対して全会一致で決議をして。こんなことが許せるか、やめなさいという内容の決議を我々は抱えて上京し、それに対して、(佐藤総理は)帰って県民を説得しなさいと言うんですよ。今振り返ってみても怒りが湧きます」

その後、「核抜き・本土並み」をうたい、返還は実現したが、実際には、日米の間で「有事の際、再び沖縄に核を持ち込むこと」を認める密約が交わされていた。


沖縄が目指した平和憲法のもとへの復帰・・・。古堅さんは、自らの体験から9条を最も大切に思っている。

日下部キャスター
「核兵器をアメリカと共有する、そんなことまで話に出てきています」

古堅氏
「我々は、沖縄戦で二度とそんなことはあってはならない、地獄の沙汰と言うしかない戦争の体験をいたしました。あたかも核兵器をアメリカと一緒になって持ち続けたら、平和を実現することができるのかのごとく思い込ませようとしている。これは本当に、許すことのできない罪悪ですよ


(報道特集 5月7日放送)
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