■スパイハンターの監視
その次の男はベラノフという二等書記官だった。年が若く、ソフトな印象だが、日本語が少し下手だった。
ベラノフが一度、約束をすっぽかしたことがある。大森のホテルのロビーで待ち合わせていたはずなのに、姿を現さなかったのだ。この晩、水谷は2時間待ったが、諦めて近くの定食屋で食事をして帰宅した。実はこれが危機を知らせる兆候だった。
この日、ベラノフは待ち合わせ場所の近くに来ていた。だが、GRUの「防衛要員」が、水谷が「監視」されていることを察知したのだ。「防衛要員」とは、スパイに危険が迫っていないか遠くから確認し、危険があれば安全に離脱させる安全確保担当者だ。この防衛要員が気づいたのが、水谷の周囲で雑踏に溶け込んでいた警視庁公安部外事一課の捜査員だった。ベラノフは防衛要員から危機を知らされて、待ち合わせ場所に姿を現さなかったのだ。
外事一課には、第四係というロシアスパイの摘発を専門とする部署がある。四係の「ウラ班」は、ロシアスパイの「行確(行動確認)」の技術を研ぎ澄ました特殊チームである。GRUの防衛要員は「絶対に見破られない」と言われる尾行、張り込みを見破ったのだった。
「先日は仕事が忙しくて行けませんでした。水谷さん、次回からは日曜日に会いましょう」
電話をかけてきたベラノフは監視されていた事実を告げずにこういった。会食の場所は転々と移り変わった。
豊洲駅近くの寿司居酒屋で食事をしたあとのことだ。店の外に出たとき、ベラノフはいつものように百貨店の紙袋を渡してきた。
「これ、おみやげです」
中に、10万円が入っているのは明らかだった。
「ああ、ありがとう。これは私からです」
水谷はお返しに、プレゼントを渡した。デパートで買ってきた甚平、7000円ほどのものだった。
「じゃ、帰りますので」
ベラノフはエスカレーターを降りていった。水谷は地下鉄豊洲駅に向かった。すると、券売機の前にベラノフがいる。電車で帰るのか。また顔をあわせたら気まずいだろう。こう思って、水谷は時間を潰すために、駅前広場に戻った。
建物の外階段の下の暗がりで、ふと思い立った。きょうも10万円が入っているのだろうか。水谷は渡された紙袋の中から封筒を取りだし、中に入っていた1万円札を数えた。遠くから、その指の動きを見ている男がいることに水谷は気づかなかった。その男は、10回数えて止まった水谷の、右手の動きを隠しカメラで記録していたのだ。
水谷はこのとき、外事一課のスパイハンターたちに取り囲まれていた。スパイハンターたちは、駅前広場に佇むカップル、タバコを吸うサラリーマンに偽装していたのだ。
※総理官邸に迫るロシアスパイ、だまされた内調職員が手口を暴露【第4回】へ続く
「国外退去となった8人のほとんどはSVRとGRUに所属するスパイです」【第1回】はこちら
会食の度に受け取る“手土産”はいつしか10万円に…「もういいです、やめますって言えば良かった【第2回】はこちら
▼竹内明(たけうちめい)
1991年TBS入社。社会部で検察、警察の取材を担当する事件記者に。ニューヨーク支局特派員、政治部外交担当などを務めたのち、「Nスタ」のキャスターに。現在も報道局の片隅に生息している。ノンフィクションライターとしても活動しており、「秘匿捜査~警視庁公安部スパイハンターの真実」「時効捜査~警察庁長官狙撃事件の深層」(いずれも講談社)の著作がある。さらに、スパイ小説家としての裏の顔も持ち、「スリーパー」「マルトク」「背乗り」(いずれも講談社)を発表、現在も執筆活動を続けている。週末は、愛犬のビションフリーゼ(雄)と河川敷を散歩し、現実世界からの逃避を図っている。

















