■車好きのロシアスパイ
衛星画像分析の研修中、水谷は自衛隊OBの講師からこんな講義を受けた。「ロシア人からお金をもらったらアウトです。たとえば5万円を受け取ってしまったとします。お金を渡す瞬間を別のロシア人が写真を撮っていて、あとで脅されます」
ロシアスパイの典型的な籠絡手法を聞いて、水谷は冷や汗をかいた。自分が今まさに同じことをしているからだ。
水谷は当時の心境をこう自己分析している。
「ロシア人は危険だという話をされると、私の心理としてはそれを遠ざけようという心理が働くようになっていました。これは嘘だと。何を言っているんだ、この人はと。自分の中で自己完結させていたのです」
この時点で、水谷はロシア人たちの正体に薄々気づき始めていたのだ。
リモノフから機密情報を要求されてから、なんとなく関係はぎくしゃくし始めていた。対等な関係が崩れ、上下関係が明確になったのだ。それを察してか、リモノフが切り出した。
「帰国することになりました。次は俺よりも扱いやすい人間が来るから、水谷さん、安心していいよ」
後任のロシア大使館員は頭が禿げ、鼻の下にちょび髭を生やした小柄なロシア人だった。<二等書記官・ドゥボビ>名刺にはこう書いてあった。明るく、人懐こい男だった。水谷と会っても、仕事の話はせず、車の話ばかりをした。
「僕は車が好きなんです。いまマツダの車に乗っているのですが、エアコンが壊れてしまいました。でも、大使館が新車購入をOKしてくれなくて困っているんですよ」

リモノフに厳しく迫られた直後だっただけに、水谷は安心した。だが、ドゥボビも毎回10万円を水谷に渡すことを忘れなかった。