引き裂かれた家族「私たちも一緒に殺してくれ」
1941年12月、太平洋戦争が勃発。
吉郎さんはフィリピンの軍人によってトラックに乗せられ、収容所に連行された。
「お父さん!」愛子さんは泣きながら父のあとを追いかけた。母は父と「一緒に行く」と言ったが、フィリピン兵は「日本人だけだ」と突き放す。
田中愛子さん(95)
「母は『お父さんと一緒に行けないなら、お父さんが殺されるなら、私たちも一緒に殺してくれ』と訴えました。そのときの母の姿は今でも覚えています」
吉郎さんはほかの日本人とともにダバオの学校施設に収容された。
その後、旧日本軍がミンダナオ島へ侵攻し、父は解放されたが、以前のような生活に戻ることはできなかった。
愛子さんの自宅は、日本軍の一時的な活動拠点のひとつになり、日本兵たちが出入りするようになったという。母は兵士たちの食事や風呂の世話をした。
吉郎さんは日本軍への協力に駆り出され、小学校を卒業したばかりの愛子さんも動員された。
愛子さんは日本軍の電話係を担当。銃弾や爆弾の注文を電話で聞き取り、紙に書いて将校に届けるのが日課だった。
田中愛子さん(95)
「夜になると大きな音がして、空を見ると米軍の飛行機が回っている。合図があると寝ていてもすぐに起きて防空壕に隠れていました」
戦局が悪化していた1945年4月、米軍がミンダナオ島に上陸したとの報せが入る。
愛子さんは父と離れ、母やきょうだいとともに山への避難を始めた。
ほかの日本人の家族らと一緒に行動していた愛子さんは、昼間は米軍に見つからないよう森に隠れ、夜に煙を焚いてご飯をつくる生活だった。
日に日に食料はなくなり、飢えと闘いながらジャングルの中をひたすら歩き続けた。

















