学徒動員で兵器工場へ

ユリ子さんは学徒動員により、爆心地からおよそ1.3キロの三菱長崎兵器製作所 大橋工場近くの事務所で、同級生およそ20人と働くことになりました。


魚雷の製造に関わる注文書を書く仕事を担当していました。

「必ず日本は勝つと信じてたからねえ」
その後、肺を患って退職し、諫早市の親戚宅へ疎開します。

長崎に原爆が投下されたのは、そのわずか1か月後でした。
「焼け焦げたすすけた紙が、諫早にもどんどん降ってきたんよ」
さまざまな偶然が重なり、ユリ子さんは原爆を生き延びました。


一方で、大橋工場や茂里町工場など三菱長崎兵器製作所全体では2,273人が亡くなり、5,679人が負傷しました。














