1950年4月7日、戦犯たちが囚われていたスガモプリズンで、最後の処刑が行われた。沖縄の石垣島で3人の米兵を殺害したとしてBC級戦犯に問われた7人の死刑執行だった。処刑された戦犯たちの亡骸はスガモプリズンから搬出されたあと、横浜市の久保山火葬場で荼毘にふされた。火葬後、遺骨は米軍が持ち去ったが、残った骨灰が火葬場に残されているという情報を得た引揚援護局法務調査室長の井上忠男は火葬台帳を調べた。すると、米軍側は戦犯者の氏名を記してはいないが、遺体が火葬された日時と、処刑された日時がぴったり一致していた。BC級戦犯たちの遺骨をなんとか遺族に渡すことができないか、井上は奮闘するー。
戦犯たちの遺骨は残っている?
1975年(昭和50年)に行政通信社が発行した「人と日本」に「巣鴨戦犯遺骨の埋葬秘話」のタイトルで、戦犯たちの遺骨の扱いについて記録を残していた井上忠男は、元陸軍大佐で、法務省参与として長く戦犯裁判の調査に関わった人物だ。厚生省引揚援護局の法務調査課長(室長)だった1953年10月20日、スガモプリズンに在所していた冬至堅太郎から、戦犯たちの遺骨が残っているという情報を得て、早速調査を始めた。
<井上忠男「巣鴨戦犯遺骨の埋葬秘話」人と日本(行政通信社 1975年新春号)>
わたしは数日後に、巣鴨運営委員会の委員長であった大西一氏に面会し、さらにつぎのようなご依頼をうけた。すなわち、残骨がもどってきたあかつきには、もう一度焼いてから分骨して遺族に分配したい。残りは護国寺におさめて供養塔を建てるか、それとも、身代わり地蔵尊に納めるか、どちらかにいたしたい。また、巣鴨人として後始末を行いたいので、そのことを復員局と巣鴨当局とのあいだで話し合ってもらいたい、というものであった。もちろん、わたしは承諾した。
















