戦時中の捕虜虐待を問われ、米軍が裁く横浜軍事法廷で死刑となったBC級戦犯は、スガモプリズンで処刑後、横浜市の久保山火葬場で荼毘にふされた。遺骨は米軍が持ち去り、遺族へは返さなかったが、火葬場に残灰が溜められていたことが分かり、1953年12月15日、掘り起こして分骨したものが、東京で遺族に手渡された。山形市から上京し、追悼法要に出席して遺骨を持ち帰った幕田稔大尉の母トメは、法要で会った教誨師の話を新聞記者に語っていたー。
巣鴨の十三階段に散った息子
「巣鴨の十三階段に散った幕田元大尉の遺骨還る」の記事が掲載されたのは、地元の山形新聞、1953年12月17日のことだった。幕田稔大尉は終戦の4か月前、沖縄県の石垣島で撃墜された米軍機からパラシュート降下して捕らえられた米兵3人のうち、一人を命令によって斬首した。1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の処刑で亡くなった7人のうちの一人で、31歳で絞首台へ続く「十三階段」を上った。
息子の命が奪われてからすでに3年半、息子の遺骨を手にしたいと願っていたトメは上京して東京・護国寺で営まれた追悼法要に出席した。法要で導師を務めたのは、スガモプリズンの教誨師として戦犯たちに執行まで寄り添った花山信勝師と田嶋隆純師だった。幕田の最期を見届けた田嶋師と母トメが交わした会話が山形新聞の記事中にあった。
















