ハードな時代劇から組合問題へ
大山 で、僕は39年に「真田幸村」※という作品を演出します。
※ 「真田幸村」1966年10月24日~1967年10月16日。月曜20時~20時56分放送。脚本:松山善三・早坂暁、プロデューサー:久世光彦、演出:大山勝美・橋本信也ほか。出演:中村錦之助、浅丘ルリ子ほか。
この作品は、鳴り物入りでした。「1,000万円ドラマ」っていうんで大騒ぎ。当時1時間ドラマの予算が1,000万円ってのは大変なことで。ま、それだけお金をかけて、NHKの大河に負けないものを作ろうと。
当時は映画全盛期の名残があって、映画スターをテレビに引っ張り込むのが大きな目玉でした。私はそういう映画スターのテレビ初出演に縁がありまして。「真田幸村」でいうと、中村錦之助さん。※
※ 中村錦之助、のちの萬屋錦之介(1932~1997)
「真田幸村」の主役には中村錦之助さんがいいっていうんで、引っ張り出し工作をやって。あと、浅丘ルリ子さん(1940〜)、小林桂樹さん(1923〜2010)、岡田茉莉子さん(1933〜)、田宮二郎さん(1935〜1978)と、そういう連中のテレビ初出演ていうのを、縁あって担当させられました。
「真田幸村」はそういう鳴り物入りでスタートしました。中村錦之助さんに勢いのあった頃で、錦之助さんぐるみのスタッフがいるわけです。殺陣師とか、周りのわき役の人とかね。で、今でいう生田(スタジオ)に、もう今住宅街になってますが、広い所があって、そこで馬を走らせる。
久野 あのロケーションはフィルムだったんですか。
大山 ええ、フィルムもVTRもありました。1回目はVTRでしたね。で、とにかくスケールのあるものをと意識してやったもんですから(時間がかかって)、放送直前までVTRの編集をしていました。プレビューなしで放送っていう、非常に切羽詰った状況で作ってました。
そんな状況なので、珍談奇談がいっぱいありました。たとえば、冬の陣のシーンを夏に撮ったりします。すると季節が真反対で暑いし、撮影がハードなので、だんだん雑兵がいなくなりまして。エキストラの人たちはTBSのリハーサル室で寝ていてもらって、朝バスで生田まで運ぶんですが、だんだん抜け出してしまう。20人から30人バスに乗せたつもりがみんな逃げちゃって。
それで、その日はスケジュールを変えるとか。あとは馬が集まらないとか、それから残業が多くなる。当時は青天井※だったんですよ、給与が。それで組合問題になってきまして。
※ 時間外手当の上限無し の意
青天井じゃ、スタッフの残業が激しいし、会社の方も困る。それで組合とのやり取りで、「何時間まで」と規定が決められていく。
で、これが外部プロダクションを作る流れの発端になっていくんです。つまりストライキなんかやられると、番組に穴が開きかねないっていうんで。それほど一種の人海戦術でやって、結局僕はね、途中で体よく下ろされちゃうんです。52本のうち30本ぐらい撮ったかな。とにかくストライキがあるとスタッフが変わる。で、そのことに対して錦之助さんが「何でスタッフが変わるんだ」と抵抗する。
そんなことがあって、途中で交代して、しばらく干される時代が続いて。で、45年に技術会社の東通※がスタートするんです。
※ 東通は1962年11月設立。1970年12月にプロダクション事業部を設置。
その頃の僕は、テレビドラマの特徴はやっぱり日常性のドラマ化だと、特に後半思うようになってくるんです。それで上の人たちに説明を求められて、若者の生き方と心情を通して、今の日本の状況を逆照射するなんて、そういうつもりで「日常性を追求します」って言ったんですよ。
そしたらある重役が私に「君、ドラマというのは、非日常ではないか。日常を追求するとは何事であるか。それは君、ドラマを分かってないな」つってですね、「日常を描くなんてのは邪道である」と、すごく怒られてですね、そういう時代だったんですよ。
だから、そこはうまくごまかして、その日常性の中にある非日常性とか、分かったような分かんないようなこと言って、とにかく「しょせんはドラマなんです」とか何とか言って、切り抜けたような覚えがあります。














