初動対応と「重要装備品」をめぐる苦渋の決断
気仙沼市は1市2町が平成の時代に合併して誕生しました。
気仙沼市街地は海沿いの地を川が南北に流れていて、内湾地区、南気仙沼地区、鹿折地区などがあります。
住宅地等が集まっていて、最も賑やかな地区の一つでしたが、津波で完全に破壊し尽くされた上、大規模な津波火災が発生。気仙沼湾内に25基設置されていた石油タンクのうち24基が流出、流れ出たガソリン等で水没寸前の車の津波火災が発生。
全長約60m総トン数330tにも及ぶ漁船、第18共徳丸が打ち上げられ、漁船のちょうど舳先の辺りにある辺りに、鹿折駐在所がありましたが津波と火災で跡形もなくなってしまって、駐在所員1名が行方不明になり、殉職扱いとなっています。
市の北部唐川地区はリアス式海岸です。
ノコギリの刃のようなギザギザとした海岸線が続き、海のすぐそばに急峻な山が迫っていることが特徴です。
このため、津波が小さな湾に侵入し、急激にその高さを威力を増して、最高30mを超えた地区もあったくらいです。
半島に点在していた地域からの集落が完全に消滅するなど、壊滅的被害を受けました。
周囲が山に囲まれた小規模な入り江家では津波の威力が増幅し、他の地域と比べものにならない高さに達したのです。
山の中腹に高さ15mの津波が容赦なく押し寄せ、砂浜の砂をほとんど削り取りました。
またこの大谷地区は、海岸線に極めて近い場所だったため、他の地区よりも津波の到達時間が非常に早く、被害を拡大させました。
ハザードマップや津波の高さ予想到達予想時刻は、地形や立地条件で大きく変化することをしっかりと理解して、その場所ごとに適切な避難の仕方を検討しておく必要があることを如実に示していると思います。
そして大谷地区は明治の津波被害の教訓を受け、町全体をかさ上げしていたんです。
もう津波被害は受けないだろうと考えられていましたが、再び津波に飲み込まれました。
加えて本吉地区を流れていた津谷川という2級河川を津波が遡上。
遡上といってもですね、川に沿って波が駆け上げるイメージではなく、川沿いにものすごいい勢いの真っ黒な水の壁が前方向に切り立った崖の男を押し寄せる。
だから、住民は当初、何が起きたのか理解できず、山から大量の水や土砂があふれる山津波が発生したと勘違いしたということでした。
比較的幅広い河川を一気に異常な高さの津波が駆け上がり、標高が極めて高い場所にまで被害がおよびました。
本吉地区では大谷駐在所が全壊し、勤務員1名が殉職しています。
当時の気仙沼警察署管内で殉職した鹿折駐在と大谷駐在の警察官2人の状況等については、後ほどご説明申し上げます。
揺れが非常に長く続いた記憶があります。
当時の旧気仙沼警察署では、とっさに庁舎外壁に設置されたエアコン室外機等が落下すると考えまして、揺れが完全に抑えるまで収まるまで庁舎内にとどまって署長室前で大声を上げたことを覚えています。
その頃、警察無線は大津波警報を発令。大津波警報発令を絶叫。
予想の高さも6m、10m、15mと鰻登りに高くなり、到達予想時刻も10分後と切迫した状況を伝えていました。
このためまず庁舎来庁者にすぐに高台に向かうよう促して避難させました。
次に、当時2階の留置場に収容していた被留置人4人を避難させるため、護送の指示をし、1人につき3人の警察官をつけて手錠腰縄を施し、それぞれ別車両に乗車させ、発災時の臨時指揮所とする予定の高台にある独身寮に退避させました。
その後署内に残留していた署員全員を1階の署長室前の警務課フロアに緊急集合させ、パトカー等ありったけの公用車に乗車し、住民の避難誘導を行って、1人でも多くの住民を高台等に言う避難誘導するように指示して出動させました。
そして次にお話する、いわゆる決死隊を除く全署員が公務ホーム公用車で住民の避難誘導後方に出動したのを見極め、交通課長を帯同し、私がしんがりを務め、署から出動。
警察署周辺にいまだ集まって雑談等をしていた住民に緊急退避するよう誘導を広報しながら高台の独身寮方向に向かいました。














