夫は生死不明 息子は母の心の光

幕田稔大尉の生家(山形市)

一方、幕田の父、幸吉はこの時点では生死が不明だった。中学校の教師だった幸吉は召集されて戦地に赴き、連絡が途絶えたままになっていた。終戦時55歳だったが、帰りを待つこと1年9カ月、シベリアに送られたという情報はあっても消息はわからず、幕田が4月に自宅へ送った手紙の宛先も、表書きは父宛て「幸吉様」になっていた。

<幕田トメが書いた嘆願書 1947年6月7日>
殊に夫は中学校に奉職中、応招になり、今はシベリアにあるとか風の便りに聞きましたが、生死もわからぬ現在、この子、稔こそ母の心の光です。まだ帰らぬ夫へのはなむけでしょうか、いいえ、稔無くして何のはなむけでしょう。稔帰ってこそ、夫へこれ以上報いる何ものもないことと存じます。稔無くして母は生きる力はありません。愛する我が子には誤り無かった事と信じて疑いません。あの子の性格はよくこの母が存じています。

親兄弟に常にやさしく、友達の交際もいたって円満でした。それで一日も早く帰られる様願います。強く正しい愛情を以て成人した我が子が、明るい新しい民主日本の建設に邁進する日の一日も早く訪れることを、毎日毎日、神に祈って待っています。司令官閣下の恵みによって新日本への天使として一日も早く送られる事を、首を長くして遥かに閣下の健康を祈り、御隆昌を祝し、私の心の痛手が早く解ける日を待っています。


幕田家に残された記録によると、父幸吉の亡くなった日は、1945年5月9日になっていた。つまり終戦前だ。終戦後も長い間還らぬ夫はシベリア抑留ということでトメは語っていたようだが、死亡日から察すると違うのかもしれない。