「オフレコ」を破るとき―公益性の判断

オフレコの取材現場で報じるか否かは、状況によって判断が分かれます。過去には、東日本大震災時に当時の民主党閣僚が記者に対して「放射能つけちゃうぞ」と発言した事例や、岸田内閣の秘書官がセクシャルマイノリティに対する差別発言をした際に、オフレコを破って報じた事例があります。

共同通信社編集委員の太田昌克さんは「取材にはルールがありますが、国民の知る権利に資することが大事。オン・ザ・レコード(発言者の実名も含めて、記録に残す形での取材)が本来は最良です」と強調します。また、取材前に取材者と取材対象との間で、「名前を明かさないで伝えることが許される場なのか、それとも完全な非公開を前提とした場なのか、その認識の共有が重要」と太田さんは指摘します。

さらに、太田さんは「オフレコで得た情報をベースに他の人を取材するということは私はありだと思います。もちろん誰が言ったかは明かしませんが、(取材先を広げて)ファクトをつかみに行く行為は必要です」と取材の手法について説明しました。

日本の核政策―非核三原則の現実

太田さんによれば、日本の核政策は1967年12月に当時の佐藤栄作首相が宣言した「核を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則が基本となっています。国会でも決議され、国是となっています。

しかし、「持ち込ませず」については、歴史的に見ると必ずしも守られてきたわけではありません。太田さんの調査によると、1953年10月に初めてアメリカの空母に積まれた核兵器が横須賀に入港して以来、冷戦終結の1990年代初頭まで、日本の港にはアメリカの第7艦隊が核を搭載した形で寄港していたといいます。

「冷戦が終わってからは、アメリカは(軍艦艦船に積む短・中距離用の)戦術核を本土に集中させる方針に変えたため、過去30年余は『持ち込ませず』も守られてきたというのが実態です」と太田さん。