先見の明と不遇の晩年~歴史のifを想う「幻のチーム・東京カッブス」

1941年に太平洋戦争が始まり、イーグルスは、黒鷲軍、大和軍と名を変えて存続していましたが、戦局が不利になる中、河野は1943年に球団を解散しました。

戦後まもなく、河野は私財を投げ打ってプロ野球の再建を目指していました 。チーム名は、東京カッブス。1945年(昭和20年)、日本野球連盟に加盟を申請しましたが認められることはありませんでした。

日本野球連盟の会長で、のちにセ・リーグ会長を務めた鈴木龍二氏の回顧録では、河野のチームの加盟について「ぼくは河野さんのチームは認めてあげたかった。しかし同じ早大の出身であっても、理想家肌の河野さんとは仲が悪かった巨人の市岡さんの反対もあってとうとう認められなかった」とし、「いまでも気の毒だったと思う」と記しています。

加盟申請が正式に退けられる10日前の1946年(昭和21年)1月12日、河野は61歳で急逝してしまいます 。伊林さんは、その早すぎる死を心から惜しみます。

大聖寺文化協会・伊林永幸会長
「もし彼がもっと長生きしていればね、後楽園をベースにした球団ができたかもしれない。彼が戦後に作った球団がそのまま伸びて、日本の中心的なプロ野球球団になっていたと思いますけどね。」

歴史に「もし」はありませんが、彼の存在がその後の日本プロ野球史を大きく変えていたかもしれないと想像させるに十分な大きな喪失でした。

河野が特別表彰で野球殿堂入りしたのは、世を去って14年後の1960年のことでした。