「父は沖縄の土に、家族を支えた母」
40歳で招集された父が、鹿児島から激戦地となった沖縄に向かったのは1944年の夏でした。私達は元気で帰ってくるであろうと父を待ちました。出征するときに父は母に大変だろうけど、子どもたちにはそれなりの教育を受けさせてくれと託したそうです。
父は役所の仕事が忙しく、すぐ下の弟と3人で釣りに行ったことが、数少ない思い出です。1945年6月、戦死したとの報を受け、父は白木の箱となって帰ってきました。拳大の石ころが入っていたのです。
残されたのは、おばあちゃん、そして7人の子ども、母は自分が働いて家族を支えていく覚悟を決め、夜明け前に起きて、こんにゃく、芋あめ、豆腐などをリヤカーに積んで行商へ。日暮れ時、私は弟妹を連れて、暗い峠で待ち続けました。暗がりにカタ、カタと音がして、母の白い足が闇にぼんやりと浮かぶと、それはもううれしくて、先を争い、駆け下りて、リアカーを押したものです。
これは鹿児島のね、おばあちゃんが書かれた文です。
原爆投下後の広島
アメリカ軍はすぐに広島を写しました。なんせ初めて使う、使った爆弾ですから、街がどんなになっとるかいうんでね。アメリカ軍が広島の街を写したんですよ。
これがアメリカの国立公文書館にある写真です。
広島にはね、路面電車が走っとる。皆さんご存知と思うんですが、広島電鉄がね、すぐに電車を走らせたんですよ。運賃はいらんから乗ってくれっちゅうてね。
爆心地から離れている己斐、今で言ったら西広島駅の方ね。こういうふうな電車が走ったんですよ。
これが有名な御幸橋。一番右の女性がね、女学生が河内光子さん。そして橋の欄干のところで頭が坊主で向こう向いとるのがね、私達の上司であった坪井直さん。
そこの建物は警察なんですがね、警察もやがて火の手がきて、みんな燃えてってそこにおった人たちはみんな亡くなっていったんですよ。今の2人だけ生き残ってね。
これが河内光子さん。私は河内さんの家へ行ってね、その当時どうだったかいろいろ聞きながら、思わず河内さんとね、手を組んだところを写真に撮ったんですよ。
坪井さんとはね、2010年ニューヨークのホテルで、こういうふうに写真撮りました。
これが陸軍被服支廠といいましてね。広島には今もこれがね4棟建っておるんですよ。ここの中で女性たちがミシンを使ってね。軍人さんの帽子、服、ズボン、靴、みんなここで作ったんですよ。だからこれを残してくれと私達は運動してね、一応残すことになったんですよ。今ね、耐震工事、まず地震に強い建物にせにゃいけんのでね。耐震工事をしております。
これはお母さんが亡くなってね子供がかすかに生きて、お母さんの上へよじ登って乳を飲もうとするんですけどね。お母さん亡くなっているからお乳がでない。やがてこの子も亡くなっていったんですよ。
これが今広島の平和公園です。ずっと向こうの方に原爆ドームが見えますがね。機材のない中少しずつね、復興が進みよるんですね。とりあえず雨風しのぐような家がほしいと言うんでね。
戦争と子どもたち
これは子どもたちが自分たちで生き抜く知恵をね働かせて、靴磨きを始めたんですよ。で外人のね、奥さんがあんたちゃお腹すいとるだろう。パンを食べなさいってパンを置いてパンを差し出したらね、子どもたちはどうしたと思う?そのパンを。もうお腹すいとるから食べなさい食べなさい言ったらね、カバンにしまったというんですよ。そしたら家帰ったらね、妹が待ってるから、妹と2人で食べるという。お父さんもお母さんも亡くなってね。妹と2人で生きて、生きたんですよ。
それを私がね、ニューヨークでね、お話したらね、ニューヨークの子どもたちに通じたんですよ。だから女の子が泣き出してね。これはニューヨークのヨハネ聖堂で話したときに、通訳も良かったんだろうな思います。泣き出して、そんなこともありました。
これが佐々木禎子さん、皆さん有名でしょ。鶴をね、千羽折ったら自分の病気が治るということでね、一生懸命鶴を折ったけど幟町中学校2年生の時ね。彼女とうとうなくなってしまいました。














