貧しい暮らしと母の愛情
戦争が終わって2年目。私たちはもう私が昭和23年に小学校へ上がるんで、母の実家へ行ったんですよ。母の実家の写真屋でこんな格好で映りました。当時の私です。戦後非常に貧しい暮らしをしておったもんですからね。これ私と弟ですがね、ボタンもね、あるやらないやら、皆さんみんなきちっとした服装しておられますよね。こんな服装で過ごしたんですよ私たちは。これは母と私と2人ですけどね、胸当てズボンセーター、全部母が作ってくれました。もうお店へ買い行くようなお金はないですからね。これかわいいでしょこれはね。
子どもの頃母がご飯粒が1粒でも取ったら拾って食べなさいと。食べ物のない時代ですからね。拾って食べなさいということでね、拾って食べるところなんですが。
この絵はね、8月にね私イタリア行ったらイタリアでこれを描いてくれって
人がおられてね。これは今回、載せてみたんですがね。
原因不明の高熱
私は大病にかかった。小学校5年生の12月、原因不明の病気になりましてね、熱が下がらんの。毎日毎日お医者さんが来て、お尻にペニシリン注射を打つけど、熱が下がらんのでね。とうとうお医者さんがこの子はもう亡くなるかわからんと言うんでね。ただ一つ救えるのは、アメリカから輸入した良い薬があるからそれを使ってみますか、その代わりお金高いですよということでね、母がとにかく使ってください、お金はどうにかするから言うんでね。それがあのストレプトマイシンという薬です。
それを使ったおかげでね、私は少しずつ元気になりましてね、12月、1月、2月、3月と学校休みましたがね。何とか元気になりました。当時冷蔵庫がないですからね氷がない。氷で頭を冷やすこともできんですから、小川を流れてくる水でね、頭を冷やしたり水枕をしたり、その程度の生活でした。
貧しい暮らしの連続
戦争が終わって15年、非常に貧しい暮らしでした。父は土木作業、母は近くの農家の手伝い、私は親孝行のつもりで家事の手伝いと子守をしたんですけどね。あの今まきで火を燃やしたりしたら火事になるからいうて親が心配すると思うんですけど、そういうようなことは母は一つも言わなかったですから。
私は見よう見まねでジャガイモを切って、玉ねぎを切ってしょうゆを入れてね。おかずを作ってお昼、夜のおかずにね、両親が食べてくれました。おいしいおいしい言うて。
そして、高校は働きながら勉強したんですよ。高校といいましてもね、定時制の高校ですから、昼間の定時制高校。月火水木と学校行ってね、金曜日、土曜日、日曜日はね、働くんですよ。今頃だったら、稲刈り。当時機械がないから手でね、稲刈りをする、あるいは冬になったら牛の爪切りをするとかね。いろんな仕事をね、近所の人たちが作ってくださってね、それでそのお金で散髪へ行ったり、靴を買ったりね、授業料払ったりしたものです。














