その日父は帰ってこなかった

これは私の家のすぐ近くの駅、駅があるんですが、そこへ私は毎日夕方になったら父を迎えに行くんですけどね、この日は父は帰ってこなかった。最後まで待ったけど父が帰ってこなかったから、私は泣きべそをかきながらね、家へ帰ろうとしたらね、空からいろんなものが降ってくるんですよね。

雨や雪ならいいけど、何かしらん変なものが降ってくるからしばらく見とれとったんですが、そして家へ帰ってお父さん帰ってこなかったよというような話をしたんですけど、その晩は母と私と弟と3人でね、夜を過ごしました。

見えない「放射能」

そしたら近所の方の人はね、広島がおおごとになっとるそうなよ、だから広島へ行きたい者はこのトラックで、トラックが出るからトラック乗っていきなさい言うんでね、トラックへ乗せてもらってね、広島市に入ったんですよ。そして父を探すんですけどね、母が私の手をギュッと握って弟をおぶってね、探すんですけど、なかなかこの暑い中で父が見つかるわけないですよね。

これはみんなね、広島のね、基町高校の生徒が書いてくれたんですよ。その間私たちがどれだけのね、放射能を浴びたことか。放射能ということをみんな知りませんからね。匂いもないし、何もないから。広島へみんな助けに行った人ですよね。みんな亡くなっていったんですよ。あの元気なおじさんが何で亡くなったんじゃろうか。不思議でしようがない。それはやっぱり放射能があったんだということがあとでわかったんですよね。

原爆ドームの周りにね、その年の冬に雪が降ったんですよね。食べ物がないから子どもたちはね、雪をつまんで食べているんですよね。

子どもや女性にとっての戦争

集団疎開という、皆さんご存知ないでしょうが、親元を、広島の街ん中でおったら危ないから親元を離れて、広島の山の中でね、生活をすることになってね。みんなこれお寺で勉強した。お寺で寝起きして、地元の学校へ通って勉強したんですよ。
そうすると夜になるとね、女の子たちはお母さんお母さんお母さんってね、泣いてからずいぶん先生方を困らせたそうです。

銃後を守った女性たち。結婚されて、新婚時代でもご主人さんはお父さんたちは戦争に駆り出された。自宅では主婦が、お母さんが男のいない家庭を守った。戦死の一報が入ると涙を見せず、子どもを育て、地域を守った女性たちの苦労は並大抵ではなかった。