■「海部の前に海部なし」巧みな弁舌と清新なキャラクターを生かし政治家に

海部氏は1931年に愛知県名古屋市で写真館の長男として生まれました。中学時代には県内の弁論大会で優勝。

1960年9月に衆議院選挙に旧愛知第3区から29歳で出馬し当時、全国最年少で初当選。
第29回の衆議院選挙、さらに初めて入った議員会館の部屋も29号室だったことから
「29年後、総理になって恩返しする」と挨拶し、実際に実現することとなります。

■官房副長官、国対委員長、文部大臣2回と経験浅くも“総裁の座”にー

1975年、史上空前と言われた国鉄のストライキに、海部氏は三木武夫内閣の官房副長官として対応。

1975年 海部俊樹官房副長官(当時)
「一刻も早く政府が結論を出して、労働基本権という問題はこういう扱いになりますということを納得のいくように決めることだと思うんです」
この当時から、連日水玉模様のネクタイを締めてテレビに出演していたことから、「トレードマーク」として知られるようになります。その後も愛用し続け、集めた水玉ネクタイは600本を超えました。

1976年には福田内閣で文部大臣として初入閣を果たします。

1989年には「党改革」を旗印についに、自民党の総裁選に出馬します。

海部俊樹氏(1989年総裁選前)
「党改革のいろいろな問題について今、一生懸命考えながら、考えながら答えを作成したところです」
大臣経験が2回という経験の浅さではありましたが、当時最大派閥だった竹下派の支援を受け、同じく候補者だった林義郎氏(後の大蔵大臣)や石原慎太郎氏に圧倒的な差をつけて当選しました。

そして、1989年8月8日、自民党総裁に就任。

1989年8月8日 自民党・海部俊樹総裁(当時)
「今日までの経験や、情熱、政治に持った志・希望。そういったもののすべてを捧げて党の再生のために頑張ってやっていきたい」

翌日には、衆議院本会議で正式に第76代内閣総理大臣に指名され、初の昭和生まれの総理大臣となりました。
■海部内閣スタート、得意のパフォーマンスで高支持率獲得
総理大臣になってからは事あるごとにパフォーマンス作戦を実施します。

「体育の日」には国民に交じって体力テスト。

公邸にお年寄りを招待しては共にゲートボールを楽しみます。
海部氏はユーモアにもあふれていました。アントニオ猪木氏が初質問に立った時には・・

1989年10月25日 アントニオ猪木参院議員(当時)
「デビュー戦でちょっと緊張しておりますが。なぜオリンピックに勝てないのか。それには本当に若人の闘魂をかき立てるような政策が育ってきません」

海部俊樹総理(当時)
「いかに強豪といえども、ルール無視の襲撃にはやっぱり災難受けられるわけですから、どうぞルールを守ったスポーツの振興に一層お励みをいただきたいと思います」
猪木氏が講演中に襲われたことに言及した答弁に、思わず周囲からも笑みがこぼれました。