大学3年時が「覚醒の年」

翌22年が中島にとって「覚醒の年」(梶原監督)になった。日本選手権で4位に入り、リレーメンバーとしてオレゴン世界陸上代表入り。リレーを3本を走り、男子4×400mリレー決勝では2分59秒51(アジア新)の4位でメダルに迫った。先輩のウォルシュが3走で中島が4走。ウォルシュが43秒91の快記録で走って4位に浮上。中島はバックストレートから300m付近まで、5位と6位選手に迫られたが、最後の直線は危なげなく逃げ切った。助走付きでスタートするので個人種目の400mより速くなるのが普通だが、44秒68の区間タイムは中島にとって自信となった。

この好成績は東洋大ロングスプリントチームの練習を、中島が十二分に活用できるようになったことが要因だった。

「ジュリアンと一緒に走って、そのスピードに力を抜いて付いて行くことを意識させました。オレゴンの前はジュリアンが250m×4本をするときに、ジョセフはミニハードルを1本やって、残りの3本を一緒に走りました。ジョセフはトップスピードの少し下の速度を維持する能力が極めて高いので、本数をやらなくても大丈夫なんです。それよりも変な動きをしないことが、(もともとヒザや足首が潰れていた)ジョセフにとっては重要でした。6、7、8月の練習でもオレゴンのリレーの1本1本でも、一気に動きが良くなりました。2か月で一気に変わりましたね」

中島自身も世界陸上オレゴンが、今回の決勝進出に向けてのスタートになったという。「打ち負かされたわけではありませんが、4位で終わって自分の力不足を感じました。その大会でM.ノーマン(27、米国)選手の400mの優勝を見たりして、自分もいつかそこに立ちたいと、現実的な目標として考え始めました」

しかし翌23年のブダペスト世界陸上は準決勝止まり。44秒台を出せると思ってヨーロッパを転戦もしたが、45秒04がシーズンベストだった。

24年のパリ五輪は予選を通過したが、4×400mリレーに備えて敗者復活レースを棄権。4×400mリレーの日本は、2分58秒33のアジア新をマークしたが6位だった。中島自身も1走で45秒36、全チーム中7位と振るわなかった。シーズンベストは45秒16で、初めて自己記録更新ができなかった。

今年に入っても米国合宿中に肺炎になったり、4月末には右大腿裏を肉離れしたりした。そこから復活し、日本選手権はなんとか5位に入賞。8月に自身初の44秒台となる44秒84をマークし、東京2025世界陸上参加標準記録を突破した。

今年の夏に間に合ったのは、世界陸上出場資格のポイントを取ることに振り回されず、試合数は絞って練習期間をしっかりとったことがよかった。梶原監督が「積み重ねがベースとしてある。ここから練習を上げていけば、日本記録は出る」と確信できる状況だった。