遺書には「破廉恥行為で無い」叔父の“戦争加害”知り葛藤

1942年8月。

この村に忠さんの部隊がやってきました。

戦犯裁判記録などによると、忠さんの部隊は銃剣や機関銃で女性や子どもを含む約350人を殺害し、家々に火をつけて村の一帯を焼き払ったとされています。

記者 
「当時この村には400人ほどが暮らしていたそうですが、今はアブラヤシに囲まれたジャングルになっていて面影はほとんど残っていません。こちらにある駅舎の一部が、唯一残っている建物だということです」

村から人は消え、今は廃墟と化した駅舎だけが残っています。

広島に住む和正さんは、忠さんが処刑された理由について家族から何も聞かされていませんでした。

ところが20年ほど前、戦争犯罪について書かれた書籍で偶然、叔父の名前を見つけたことがきっかけで、戦争裁判の記録を取り寄せました。

忠さんの甥・橋本和正さん
「(書籍の)中に「橋本少尉」という名前が出てきてびっくりしたというか、心臓が飛び出すくらい驚いて。(虐殺現場に)ともに連れて行ったインド系の警察官が『これらの人たち(華僑)に疑いをかけるとしても取り調べをしたうえで裁判にかけてでないと処刑とかそういうことはできませんよ』と言ったと。だけど橋本(忠)が『自分が責任を持つ。責任をとるから』と。裁判記録に残っているものでさえ、(家族や)周りの人は教えてくれなかった」

BC級戦犯として処刑される前日、忠さんは遺書にこう綴っていました。  

忠さんの遺書
「只(ただ)私は御国の為(ため)に取った行動です
そして此の事件の為に責任を問われて此んな判決を受けたのです」
「どうか父母兄弟親族の旁々に破廉恥行為で無い事は御理解出来ていただく事と存じます」

橋本和正さん
「弟に向けて『意に添わぬことは絶対にするな』というようなことも書いています。もしかしたら一連のマレー半島で犯した中国系住民の大虐殺というかそういう粛清作戦そのものに対して自分の意に添わぬ行為を繰り返し繰り返しさせられたんだな、というような印象もそのときに思いましたね」
「(周囲から)『叔父さんも戦争の被害者だったんだよね』と言われてると正直ほっとする気持ちはありました。『同じ戦争の犠牲者だったんですよね』と言われるとほっとはするけれども。でもやっぱりそれで良いのだろうかと思っていますしこの事実を伝えていく大切さがあると思います」