太平洋戦争中、旧日本軍が占領したマレー半島で、人々の記憶に深く刻まれているのが「華僑の粛清」。虐殺を指揮した日本兵の親族と、殺害された華僑の遺族、それぞれの思いを取材しました。日本による戦争加害の歴史です。
軍国少年だった叔父 侵攻したマレー半島で何が
80年以上前の戦争加害と向き合い続ける男性がいます。
広島県廿日市市に住む橋本和正さん(74)。
橋本和正さん
「叔父のよく写っている写真です」
「軍服姿の本人の写真ですね」
叔父の橋本忠さんは、広島で結成された旧陸軍第5師団歩兵第11連隊第7中隊に所属していた少尉でした。
忠さんの甥・橋本和正さん
「(幼少期は)軍隊ごっこをしながら一本気なところというのかな。無鉄砲なところがあったという風には聞いています。軍隊にも憧れたりしたんだとは思うし、いわゆる当時の“お国のために”という意識が強くなっていったんじゃないか」
忠さんは戦後、マレーシアでBC級戦犯裁判にかけられ、28歳で処刑されました。
現地で何があったのでしょうか。
太平洋戦争が始まった1941年、旧日本軍は、中国との戦況が泥沼化するなか、アメリカ・イギリスとの全面戦争に突入しました。
石油やゴムなどの資源を確保するため、当時イギリス領だったマレー半島に侵攻。わずか2か月でシンガポールを攻略しました。
その後、マレー半島各地で、中国本土への経済援助を続けていた「華僑」と呼ばれる中国系住民を敵視した大規模な粛清が始まったのです。
犠牲者はマレーシアで5万人以上とされています。
忠さんは「マレー作戦」の主力部隊として現地に駐屯し、華僑虐殺を指揮したひとりでした。
忠さんの甥・橋本和正さん
「日本軍の残虐性、非人道性があらわれているなと思いましたね」
マレーシアの首都クアラルンプール近郊のネグリセンビラン州には、日本軍による華僑虐殺の傷跡が確かに残っていました。
記者
「中国系住民が埋葬されている墓地の中に慰霊碑がたっています」
「欠けているところがあって一部文字が見えませんが『橋本少尉』という部隊長が来たと記されています」
忠さんが虐殺に関与したスンガイルイ村。
鉄道の駅の周りには住宅地が広がり、タバコの生産などが盛んだったそうです。