ポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏した日本が受け入れた「戦争犯罪人の処罰」。終戦の4か月前に、沖縄県石垣島で日本軍が撃ち落とした米軍機の搭乗員3人を殺害した石垣島事件では、「捕虜」を殺害したことが戦争犯罪に問われ、横浜軍事法廷で46人が被告となり、最終的に7人が死刑になった。この7人が1950年4月7日、スガモプリズンでの最後の死刑執行となった。処刑された一人、福岡県出身の藤中松雄は28歳。3日後には満29歳の誕生日を迎えるはずだった松雄には、ふるさとに妻と二人の幼い息子がいた。上官の命令によって、杭に縛られた米兵を銃剣で突いた20人以上の元日本兵のうち、死刑になったのは松雄とその次に突いた成迫忠邦、いずれも20代の下士官だった。処刑の二日前、松雄は米軍将校が居並ぶ部屋に呼ばれ、死刑執行を申し渡されたー。

◆最後の筆 遺書を書き始めた松雄

藤中松雄が遺した遺書(福岡県嘉麻市 確井平和祈念館所蔵)

藤中松雄ら死刑を執行される石垣島事件の7人が、死刑囚が集められていたスガモプリズンの「五棟」から連れ出されたのは、4月5日の夜だった。死刑執行は金曜日と決まっていて、呼び出しは普通、木曜日なのに、一日早く、死刑囚の仲間たちと別れることになった。執行までを過ごす部屋は、女性の戦犯が収容されていた通称「ブルー」棟だった。夜8時半、松雄は遺書を書き始めた。

<藤中松雄の遺書>
遺書 南無阿弥陀佛
我既に生れ変り 御佛の国に在り
直ちに父母妻子の元に帰り永遠に守り抜かん

昭和二十五年四月六日(五日の誤り)夜八時三十分頃
藤中松雄 移転第一筆