「社会から見下されていた」中国でも日本でも心無い言葉をかけられる
戦時中、約30万人の日本人が開拓団として移り住んだ「満州」。母・和子さんも1歳のとき、家族と満州にわたります。
しかし、直後に両親が他界。取り残された和子さんは中国人の家庭に引き取られました。そして18歳のときに中国人男性と結婚。静恵さんたち6人の子どもが生まれました。
(残留邦人2世・新田静恵さん)「兄弟は6人いて、両親は畑仕事をしていました。家族も多く生活は苦しかったです。お母さんが日本人であることが原因で思うように就職できなかった」
1980年代に入り、日本政府による残留邦人の帰国事業が本格化。1991年、和子さんは48歳にしてようやく日本に戻りました。その2年後、33歳だった2世の静恵さんも「家族で一緒に暮らしたい」と帰国します。しかし、静恵さんたちを待ち受けていたのは“言葉の壁”でした。
(残留邦人2世・新田静恵さん)「生活で一番困ったことは日本語です。買い物をするときに商品が見つからないし、スタッフに聞こうと思っても聞けない」
日本語教室に通いましたがなかなか言葉を覚えられず、できる仕事も限られ苦しい生活を送ってきました。
さらに心無い言葉もかけられたといいます。
(残留邦人2世・新田静恵さん)「中国にいたころ周りにずっと『小日本鬼子、小日本鬼子』と言われた。日本に戻ってからは『中国人、中国人』と言われ社会から見下されていた。ふだんの生活であまり幸せを感じることはなかった」