死ぬ間際に思うことは…

クライマー・山野井泰史

1996年、山野井はマカルー西壁への挑戦を想定し、厳しいトレーニングを重ねていた。
TBSは当時、国内とヒマラヤで同行取材をした。高さ120メートルの氷瀑を、ロープを使わない「フリーソロ」で完登したり、北アルプスの巨大な岩壁をソロで登攀し、激しい降雪で雪崩が頻発する中を下山したりすることもあった。

そして迎えたマカルー西壁への挑戦の日。

頭上からひっきりなしに落ちてくるチリ雪崩(粉雪が斜面を滑り降りてくる雪崩)に、山野井は葛藤を始めていた。

「本当に威圧的に、下から登っていくと、被っているように見えたね。大した傾斜じゃないけど、いやあ一歩一歩が勇気を必要とするという感じで、一歩一歩地獄に向かっていくような感じで、触りたいような触りたくないような。そんな感じで一歩一歩進めて行くからスピードも上がらないしね」

夜間登攀の最中、今まで経験したことがないくらい、強く深い衝撃が頭に加わった。7300メートル地点に来た時、山野井のヘルメットに落石が直撃したのだった。

「雪に顔をこすりつけながら、もう十分だ、どうにもならないと思い、涙をこぼした。(山野井の日記より)」

マカルー西壁は、山野井が想定したよりもはるかに難しかった。体力面も高所に適用する能力もすべてが足りなかった。山野井は挑戦を断念したが、再びマカルー西壁をやると心に誓っていた。しかし、この6年後、ギャチュン・カンでの凍傷により、手足の指10本を失った結果、再び挑戦する夢はあきらめざるを得なくなってしまった。

「あと何年、ぼくが生きるかわからないけど、死ぬ間際に、あー、マカルー西壁を登れなかったなあって思うかもしれないね。絶対的な理想、絶対的な夢を達成できなかったというのはやっぱりちょっと残ってる。マカルーを登れるくらいの理想のクライマーになりたいとずっと思っていたのになれなかった。マカルー登れなかったって、ことキレるまでに思うんじゃない。第三者は関係ない。マカルーがあって僕があって、僕は登れなかった」

山野井のマカルー西壁への挑戦から25年。その後、世界最強とも言われたスロベニアのクライマーなどが挑んだが、山野井の到達点までも行けずに敗退している。これまで7800mから始まるヘッドウォールに到達したのは、1981年のクルティカたちのチームだけだ。今後、マカルー西壁を登るクライマーは現れるのだろうか。

「(もし登った人が現れたら)どうやって岩を触ったのか、氷にピッケルを突き刺したのか、どういう景色が見えて、聞いてみたいなと思うね。生身の人間が8200mぐらいのところで酸素ボンベも使わずに垂直の岩壁を登っている感覚ってどういうものなんだろうって、それを聞いてみたい」

もし若いときに戻ってもう一度、マカルー西壁に挑めるとしたら―――。

「マカルー西壁は1人でいた方がきれいだね。登れるか登れないかわからないけど、あの巨大な三角形の岩壁にたった1人でいるんだよ。僕の中にはあの巨大な三角形の中に、ぽつんと1人いて、垂直のところをガシガシガシと登っているのが僕の中で理想のクライマーだから。やっぱり1人で、ちょっと可能性が低くなっても行きたいかな。そもそも成功させるために行ってるのか微妙。ここに自分がいたらいいだろうなというのを想像するんだよね」

山野井の9歳年上の妻であり、クライマーでもある妙子は、山野井のことをどう見ているのだろうか。