田浦さんを乗せた貨物列車が着いたのは、シベリア東部のタイシェットという抑留地でした。

「40代ほどの新聞記者がいた。マンチューリという国境の駅があった。その駅を通る少し前に後ろから太陽が上がって来た。走ってる時に。これはダメだ。みんなソ連に行くんだぞと。その人は泣いてた」

田浦さんは、マイナス40度を下回ると言われる極寒のシベリアで、十分な食事も与えられず道路の整備など過酷な労働を強いられます。

「どんな道路つくるかと言ったら木道。木の道路。木を切って倒してそれを敷き並べるのをずっとした。」

月に2回だけ浴びるシャワーのあと、収容所の医師に腹の皮を引っ張られ、その伸び具合で健康状態を判断されていたと当時を振り返ります。


「俺は腹の皮を引っ張られた尻の皮をつまんで引っ張ってどれだけ伸びるか、伸びようによって仕事は変わる。(健康じゃないようだと簡単な作業になる?)そう、その代わりご飯も少ない。穀類はもらえない、パンが少なくなる。」「これだけの黒パン、厚み1センチほど。片食(一回の食事)に1枚。あとはスープ。飯盒に半分もらえる。いわば塩水」

あまりにも少ない食事。

過酷な寒さ。

田浦さんは、だんだん体が動かなくなってきたと話します。

「靴を履いたまま寝た。フェルトの靴、長靴。ソ連の兵隊は良いのを履いているけどお下がりだから薄いし冷える。足冷たくなってくる。」